当館では、『大漢和辞典』を始めとする漢和辞典を発行する大修館書店が、漢字や漢詩・漢文などに関するさまざまな情報を提供していきます。

読み物

連載記事

第10回 苛政は虎よりも……

 アメリカとトップ争いをするほどの経済大国となった中国の首都・北京。
 超高層ビルが林立し、昼間は生き馬の目をぬくようなビジネス街だが、その一角を入ったあたりは、槐(えんじゅ)の木の下に古ぼけた北京の下町・胡同(フートン)が続いていたりして、夜は驚くほど暗い。
 崩れかけた土塀、ハダカ電球の下ひっそりと駄菓子やジュースを売る雑貨屋、無灯火で走る三輪自転車、どこからともなく低く聞こえてくるラジオ、露台に腰掛けてのんびりとおしゃべりする老人、白い湯気のもうもうとたつ冬のうどん屋、暗がりの中で妙に明るい厠所(共同トイレ)……。
 友人と食事をしに北京の中心街にでかけた帰り道など、私はわざわざ遠回りし、一人ほろ酔い気分でそういう裏路地の夜を歩くのが好きだった。自分が小さかったころのふるさと・奥出雲の記憶とどこか重なるような気がして、気持ちがなごむのだ。

 だが、私のそんなセンチメンタルな思いは別として、現にそこに住んでいる人たちは、今の生活を楽しんでいるのだろうか? できればそうした古くて貧相な生活から抜け出し、郊外のきれいな家に移りたいと思っているのではないだろうか。郊外にいけば亭々たるマンションが建ち並び、清潔な服をきた若い人たちが生活していて、しゃれた買物袋を手に、ぴかぴかの外車から颯爽と降りてくる。
 中国の大都市に存在する明と暗。それは全土に広く存在する格差を象徴するものだ。中国の二つの姿――超近代的な都市と何千年も変わらぬ農村という極端な差違、その直接的な要因はもちろん政治と経済にある。が、もっと根源的で抜き差しならぬものとして人口の多さ、それに風土の厳しさがあげられるだろう。

 中国に旅行したことのある人なら誰でも知っていることだが、中国では生水や水道水をそのまま飲むことができない。必ず一旦沸騰させたもの(開水という)を飲む。だから朝起きたらヤカンにたっぷり水を汲んで沸かす、これが北京における私の日課であった。
 そうして毎日ヤカンでお湯を沸かしていると、そのうちヤカンの注ぎ口に白いものが付着する。水道水に含まれている石灰分だ。

ヤカンの注ぎ口に付着した石灰

 やがて注ぎ口の根本の無数の小さな濾過口が白い塊でふさがり始め、水の出が悪くなる。ふたを開けてみるとヤカンの内部や底の部分にも2~3ミリの白い層ができている。タワシでこすっても硬くてなかなか取れない。包丁の尖端で削って取ってみると、これがまぎれもない石灰の塊なのだ。われわれは何とも思っていないが、どこにいっても水がそのまま安心して飲めるという日本のほうが、むしろ特別なことなのかもしれない。

 中国の南方は知らず、華北の地は基本的に雨がすくなく、乾燥している。特に秋から冬にかけてはほとんど雨が降るということがない。降れば雪になるのだが、それとて積もるほど降らない。積もるほど降るとその雪は搔かれて道ばたに塊となる。その雪の塊だが、日本のように融けでた水で道が濡れるということがない。空気が強烈に乾燥しているので、雪は融けて水となるまもなく空中に“直接”蒸発し、いつの間にか塊が消えるのだ。
 そんな北京だから、暖房がきいた部屋はますます湿度が低くなり、お茶の飲みさしもきれいに乾いて、茶碗の底に茶渋が濃くのこるだけ。洗濯物も半日もすればバリバリに乾く。乾燥のせいで静電気もひどく、指にかなりのショックを感じるほどだし、少し暗いところだと、誇張でなく周囲が明るく見える。
 私はもともと喉が丈夫なほうではない。よって秋から冬にかけて毎年必ず喉をいため、それがひどくなり、最後はいつも医者にいった。考えてみれば当然だが、剣道をやれば当然大声をだすし、そもそも喉は日本語教師たる私の商売道具である。毎日酷使するので、まちがいなく喉をやられる。私が冬の北京で愛用していたのはジンサンズ(金嗓子=金の喉)というのど飴だった。テレビで毎日広告しているので、誰でも知っている薬だ。

 北京滞在の後半の5年ほど宿舎で自炊をしていたが、北京の野菜、特にニンニクやニラ・ネギ・シイタケ・ゴボウなどは、日本のそれにくらべて心なしか香りが高くなかったような気がする。日本料理店で土瓶蒸しも食べたが、マツタケというよりエリンギに近いものだった。つらつら考えるに、雨の少ない乾燥した空気の下で育った野菜は、湿潤な土地でとれたものより香りが弱いのではないか。
 それと雨が少ないため、植生というものが湿潤な日本と決定的に違う。植物の種類が極端に少なく、日本のように雑草がすぐに地面を覆いつくすというようなことがない。植生が貧しいということは、それに依拠して生きる昆虫も少ないということだ。私は中学時代の3年間、蝶の採集に没頭していたから、世界のどの土地にいってもそこに蝶が飛んでいればいちいち気になるほうだが、華北の地に蝶はほとんどいない。日本には200種以上の蝶がいるというのに、北京で目に入った蝶はナミアゲハ、モンシロチョウ、キタテハぐらいのものだ。種類も少ないが個体数も非常に少ないので、蝶というものを見る機会が少ないのだ。ただ、何を食草にしているのか知らないが、毎年秋になるとキタテハ(あるいは近似種のシータテハ)のみは多数発生し、北京の街の中を鬼ごっこして飛んでいる。雲南に旅行したときに、日本では見たことのない蝶が何種類も飛んでいたのにくらべると雲泥の差だ。
 中国の山西省、陝西省、甘粛省、寧夏、内モンゴルなどにひろがる黄土地帯は極度に雨が少ない。夏は高温、冬は極寒。細かい黄土は乾けば硬くなり、たまに雨が降れば崩れて流され、それが乾けば細かい砂となり、強風で空に舞い上がり、一面真っ黄色。たまに雑草がひょろりと生えている程度で立木一本ない。どこまでも続くその黄色い光景は、日本の緑の山々を見なれた私には異様としかいいようがないものだ。

 
黄河の中流、山西省磧口付近で

 こんな過酷なところにも人は生きている。乾燥した黄色い土地を耕し、種を植え、遠くから水を汲んできて、小麦をつくりトウモロコシを育て、営々として日々を暮らしているのだ。このような華北の土地を歩いていると、風土というものの決定的な違いを考えざるをえない。

 だが、厳しいのは自然のみではない。人の歴史もまた厳しい。漢民族という視点から考えてみれば、歴史は常に異民族との抗争であったといえる。ざっと並べただけでも春秋戦国期の西戎北狄、漢代の匈奴、北魏の鮮卑、唐代になって突厥やチベット、宋代の西夏、元朝のモンゴル、清朝の満州族。その間、長期にわたって他民族の支配下に生きるという時代を何度も経験している。現在でもチベット、ウイグルなどとの紛争がたえないのだ。しかも漢民族同士の主導権争いも絶えない。現代の二つの中国は国民党と共産党の分裂によるものだし、歴代の、つまり戦国時代から秦漢、三国から六朝期を始めとして王朝の末期には必ず大規模な戦乱が起きている。異民族はそうした混乱に乗じて中原に侵入したといってもいい。
 それにくらべれば、海に囲まれた島国・日本は他民族との交渉があまりなく、ほとんど同質といってもいい社会を作り上げ、その中で生きてきた。その間、争いはあっても基本的に宥和することが多く、他と長期にわたり厳しく対立するというような経験は少ない。ルールが決まればそれを守り、国民として一つになりやすい。
 中国は国土も広く、人も多い。全国民が簡単に一つになるほど単純な国家ではないし、簡単に権威やルールにしたがうような国民でもない。強大な権力でかろうじて民衆を抑えこんでいる中国の為政者からすれば、日本の政治家は楽でいいと思っていることだろう。なぜなら日本人は規則をよく守るし、政権が嫌がるようなことは率先して自粛するような民族だからだ。
 生水は飲めない、土地は乾燥して自然の恵みがすくない。河は汚染され、空はpm2.5で暗い。さっさと海外に居場所を移せる金持ちとちがって、圧倒的に多い中国の庶民はいやでも土地にしがみついて生きていくほかに選択肢はない。たまたま手に小金ができた人たちは日本にくると爆買いし、自分たちと違う豊かな日本の風土を楽しむのだ。

 今、中国の民衆は厳しい大気汚染に苦しんでいる。下の写真は私が北京滞在中の2013年、ひどくなり始めたpm2.5の状況を宿舎の窓から定点撮影したものである。私は建物と建物の間から見えるクレーンの見えぐあいで、その日の空気の汚れを計っていた。

2013年3月10日10時47分撮影 2013年3月6日10時34分撮影
【左】2013年3月6日10時34分  【右】同年3月10日10時47分

 喉が弱い私はひどい日にはマスクを着けて外出したが、近所の主婦はそんな日でも、大学のキャンパスの芝生の上でのんびり子どもを遊ばせていた。健康によくないと言われつつ、誰もこの子たちの将来にどのような影響があるか言わないし、言えないのだ。そんなある日、教え子が日系の空気清浄機の会社に勤めていて安くするというので2台購入し、2つある部屋に1つずつ置いた。ところがその清浄機のフィルタ―が交換して1週間もすると真っ黒になるのだ。私が剣道の稽古に通っていた北京日本人学校もついに大型の空気清浄機を導入し、エアーカーテンで外気を入れないようにした。このような状況は私が帰国してからますます悪化するばかりのようで、昨年末になってとうとう最も汚染度の高い「赤色警報」が発表された。

 『苛政は虎よりも猛し』という。孔子が泰山の近くを通りかかった時、婦人が墓の前で激しく泣き悲しんでいた。人をやって事情を聞くと、この辺りは虎が出没し、舅も夫も、そして今度は息子までも虎に喰われて命を落としてしまったと嘆く。ならばどうして他の土地にいかないのかと孔子が問うと、ここは他所より政治が過酷でないからだ、と答えたという故事(『礼記』)によるものだ。
 簡単に移動できると考えるのは孔子が士大夫(支配階級)だからなのだが、それはおくとして、生水が飲めない、雨が少なく土地が乾ききっている中国の厳しい自然は「虎」ということができるかもしれない。しかし今や中国全土を覆わんとするpm2.5は、はたして虎か、苛政か?
 私の剣道の教え子夫婦も、大気汚染を気にしつつ、今満1歳になる女の子を北京で育てている。

(c)Morita Rokuro,2016

  • facebookでシェア
  • twitterでシェア

おすすめ記事

写真でたどる『大漢和辞典』編纂史

体感!痛感?中国文化

写真でたどる『大漢和辞典』編纂史

偏愛的漢詩電子帖