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『漢文教室』2号(1952年6月発行)掲載

王維の詩について


   (一)
 漱石は草枕の中に、「獨坐【二】幽篁裏【一】、彈【レ】琴復長嘯、深林人不【レ】知、明月來相照。」(編集部注:【 】は返り点、以下同)という王維の詩を引いて、「只二十字のうちに優に別乾坤を建立して居る。」と述べている。俗塵を離れた静かな竹林の中で、明月を友として琴をひき詩をうたっている自適三昧の境地は、まさに人生の憂さを忘れ切った別天地であったに違いはないが、問題はなぜ王維にはかような別天地を必要としたかである。
 更に王維の輞川閒居の詩を読んでみようか。 

 寒 山 轉 蒼 翠。 (寒山 轉た蒼翠)
 秋 水 日 潺 湲。 (秋水 日々に潺湲)
 倚 杖 柴 門 外。 (杖に倚る 柴門の外)
 臨 風 聽 暮 蟬。 (風に臨みて 暮蟬を聽く)
 渡 頭 餘 落 日、 (渡頭 落日餘(のこ)り)
 墟 里 上 孤 烟。 (墟里 孤烟上がる)
 復 値 接 輿 醉。 (復た接輿の醉に値ひ)
 狂 歌 五 柳 前。 (狂歌す 五柳の前)<*>

ひとり門外に立って、静かに暮れ行く初秋の夕景に眺め入る王維。ひぐらしの声、沈み行く夕陽のおもかげ、細々とのぼる夕げの煙、いずれは秋のあわれであろうが、静かな、淋しい、いわば人生の晩年にも似たものを感じさせる。王維はこの自然と一つになって、なにかしら心の淋しさを慰めておったような気がしてならない。そこに接輿のごとき酔いどれの裴廸がやって来て、ものぐるわしく歌いさわぐ、それはいかにも王維の静かな心をぶちこわしてしまうようにも聞えるが、実は王維の心中を知りに知って慰めにやって来たようにも思われる。わざとらしい表現の中に、かえってそうしたひびきがある。随分と主観に陥ったようであるが、王維の詩は、読めば読むほど、淋しさを感じさせる。私どもがこの「高等漢文」<**>を編集するにあたって、なんの限定もしないで、ただよい詩と思うものを読み集めたのであったが、王維の詩については、期せずして同じ傾向のものが集まった。右の竹里館の詩(巻一)・輞川閒居の詩(巻二)の外に、鹿柴の詩(巻一)・送【三】元二使【二】安西【一】の詩(巻一)・送別の詩(巻二)、都合五首を選んだのであるが、どれも静かな、そして淋しさのある詩ばかりである。詩人は憂えが多いというから、詩人のもつ共通の現象であるかも知れないが、わけても王維の詩にこの傾向の強く感じられるのは、どうしたことであろうか。この点についても考えてみなければならない。

   (二)
 王維の詩心のよって来るところは、彼の生涯に起ったいくつかの出来ごとに依っても知ることが出来そうである。王維の生涯を通して、彼の思想に大きな変動を与えたと思われる出来ごとは四つある。いまそれらの出来ごとについて、彼の年代を追って調べてみよう。

 王維の伝記は、旧唐書及び新唐書に見えている。王維の卒年については、両書、説を異にし、新唐書は乾元二年(七五九)七月とし、旧唐書は上元の初、六十一で卒したと記している。清朝の趙松谷の編した右丞年譜(王右丞集箋註巻末)は、旧唐書やその他を参考して、上元二年(七六一)七月卒、年六十一としているが、これによると、彼の生れたのは、長安元年(七〇一)となり、偶然にも李白と同時に生れたことになる。李白は、王維の死んだ翌年の宝応元年(七六二)年六十二で死んでいる。話は脇道にそれるが、李白は一斗詩百篇の大酒豪で、彼のある所常に酒があり酒によって彼の詩が生れたともいえるが、王維の詩を読んでみると、一体どうしたことか、酒に興じる場面はとんと見えない。陽関三畳の詩に、「勸【レ】君更盡一杯酒」とあるが、これとても王維が客にすすめて別れを惜しんでいるだけであって、なにも王維が酒を好んだことにはならない。東洋の文学は漢詩にあり、東洋の詩人には酒がつきものと思っていたが、この考えは、王維によって是正しなければならない。旧唐書にも言っているように、王維はひとり詩人としてでなく、画家としても、書家としても、開元天宝の当代に名を売った大芸術家である。かかる芸術家には、えてして奔放自在、斗酒なお辞せざる酒豪が多いのであるが、王維にはそうしたところが微塵もなかったようである。これもどうしたことであろうか。

 再び王維の年譜にかえって、その閲歴を調べてみると、王維が進士に登第したのは、開元九年(七二一)、二十一歳の時であったが、これについては面白い逸話がある。王維は、二十前の若い時から、詩人として、また琵琶の名手として当時にもてはやされ、時の天子玄宗皇帝の弟にあたる岐王には特に愛されていたが、王維もまた青雲の志に燃えた文学青年で、進士の試験を受けることになった。然し当時の試験には相当の情実があったと見え、王維は眷顧にあずかっている岐王に応援を頼んでみた。すると、岐王は、お前の今まで作った詩の中で清越なるものを十首と、琵琶の怨切なる新曲を一曲作って来いという。王維は命令のままに詩と新曲をもって岐王を訪ねる。岐王はわが命令に従え、と言って、王維にあざやかな錦繡の衣服を着させて連れて行ったところは、今を時めく、公主の邸宅の宴席である。王維はまさに妙年美貌の青年、それにはでな服装が一きわ目立って、公主の目をひき、彼はどういう者か、との御下問にあずかり、音楽家と答えて、遂に用意の琵琶の新曲を独奏して満座を感動せしめた。深く感服した公主はこの曲名をたずねると、王維は立って鬱輪袍と答える。すかさず岐王は、彼は音楽の名手であるばかりでなく、詩人としてもその右に出る者はあるまい、と推奨すると、公主はいよいよ興じて、それなら汝の作った詩があるか、と問われる。王維はやおら懐中より用意の詩を出して献上する。みるみる公主は驚いていう、この詩は私が日ごろ読んでいるもので、古人の佳作と思っていたのに、あなたの作ったものですか、と。かくて王維は一躍公主に認められる身となったが、岐王はこの機会を外さず、公主に王維の進士受験の志あることを述べ、その庇護を依頼した。開元七年(七一九)、王維が年一九で京兆府試に赴き、解頭(首席)をもって及第したのは、そのかげに公主の援助があったもので、翌々の開元九年に楽々進士に登第したとは、太平広記に引用する集異記の話である。

 事の真偽はともかくとして、王維は年二十一の若年を以て進士に登第し、大楽丞という宮廷楽人の取締りをする官について得意の境地にあったが、同年、事に坐して済州の司倉参軍となり地方にくだることになった。集異記はこの事情を説明して、彼の監督下にある伶人が、天子一人のため以外には舞うことを許されない黄師子の舞を舞ったためであると伝えているが、開元二十二年、張九齢が執政となるに及んで右拾遺に拔擢されて再び都に帰るまで、不遇な済州の生活は前後十三年に及んだ。この突然の左遷と失意の十余年の生活は、彼の思想に影響を与えた第一の出来ごとであったと思う。進士登第とともに大楽丞に擢んでられ、宮廷生活のはなやかさを味わったのも束の間、一転して地方官に左遷された王維は、いかに二十一歳の若年とはいえ、人生栄辱のはかなさを観ぜざるを得なかったであろうし、しかも左遷の時代が十数年の長きに及んでは、彼の心境に変化を与えずにおかなかったであろう。それにもまして彼の心を動揺させたものは、最愛の妻との死別であって、これが第二の大きな出来ごとであった。

 新唐書によれば、妻をうしなって再娶せざること三十年、一室に孤居し、塵累を屛絶す、と書いてあるが、彼は六十一歳をもって死んでいるから、妻をうしなったのは、恐らく彼の三十歳前後で、彼が不遇をかこちつつあった済州生活の間に起った出来ごとである。失意の境地にある彼は、今また最愛の妻に先だたれたのである。うたた人生の無常を感ぜずにはおられなかったに違いない。彼が仏教を信仰するに到ったのも恐らくこの前後のことではあるまいか。彼の終南別業と題する詩に「中歳頗るを好み」と言っているのは、恐らくこの間の事情を物語るものとみてよかろう。もしこの推定に誤がないとすれば、王維は三十歳前後を契機として仏教的思想への転向をなしたと言うべきで、彼の詩に仏教的思想の深いのはこのためである。歴代名画記や図画見聞志に見える彼の詩、 

 當 世 謬 詞 客。 (當世 詞客に謬(あやま)らるるも)
 前 身 應 畫 師。 (前身は畫師に應(あた)る)
 不 能 捨 餘 習。 (餘習を捨つる能はず)
 偶 被 時 人 知。 (偶たま時人に知らる)

というのは、自分はいま詩人として見られているが、前世は画家であったのだから、画家としての自分は、前世よりの宿縁であるという意味であって、暗に画家としても自任する所のあったことを物語っているが、ここに前世云々の語はまさに仏教思想の影響である。尚、この詩は、韻語陽秋には、「宿世緣【二】詞客【一】、前身畫師」と変っているが、これなら一層仏教の因縁を物語っている。彼が摩詰と号したのは、菩薩維摩詰の名を取ったというに至っては、彼がいかに仏教に帰依していたかを物語る何よりの証拠である。

 王維が仏教をあつく信仰したのは、一面彼の母の影響でもあったらしい。母は早くから仏教に帰依し、山林の静寂を愛したので、王維は母のために、長安の東南にあたる藍田県の山中に草堂を建てて孝養をつくした。然しその母も王維が五十歳前後の頃に他界した。仏教家であり、しかも人一倍親孝行な王維は、母の喪に哀痛してやせ衰え、見るにたえない程であったといわれる。さきには最愛の妻に死なれ、今また骨肉の母に別れたのである。後に王維は、母を慕うのあまり、母の草堂のあとに、奏請して寺を建て、母の冥福を祈ったといわれる。時に王維は監察御史・庫部郞中をへて文部郞中に進み、順調なコースを歩んでいたが、母の死は彼をして一層仏教への深化を促したものと思われる。彼が終南別業の詩に、「晩に南山の陲(ほとり)に家す。」とあるのも、恐らく母に別れた後の事ではあるまいか。(終南山は長安の西にある。)これが彼の思想に変動を与えた第三の出来ごとである。

   (三)
 更に彼の一生を通じての一大事件は天宝の乱によって起された。玄宗が楊貴妃の愛におぼれて政治を怠っている間に、安祿山が反旗をひるがえして攻めのぼり、さしもの玄宗も蜀への蒙塵となり、楊貴妃は殺され、楊国忠は自殺して、幾多の悲劇を作ったが、王維もまたこの悲劇の渦中に巻きこまれた。時に王維は給事中の職にあり、天子に従って逃れる機会を失い、遂に賊に捕えられた。王維は薬を飲んで下痢を起し、偽って瘖疾のふりをして賊手を逃れんとしたが、洛陽の普施寺に拘えられ、遂に偽署をもって賊官を受ける身となった。時に安祿山は凝碧宮に宴をはり、玄宗に仕えた梨園の弟子や教坊の楽人に舞楽せしめて一時の成功を楽しんだ。王維はこれを親友の裴廸から伝え聞いて悲しみのあまり次の一詩をよんだ。 

 萬 戶 傷 心 生 野 烟。 (萬戶 傷心 野烟を生ず)
 百 官 何 日 再 朝 天。 (百官 何れの日か再び天に朝せん)
 秋 槐 花 落 空 宮 裏。 (秋槐 花落つ 空宮の裏)
 凝 碧 池 頭 奏 管 絃。 (凝碧 池頭 管絃を奏す)

まさに悲憤忼慨、万斛の涙ある詩である。

 安祿山が殺されて天下再び太平となるや、玄宗の後をついだ粛宗は、賊官に降った者を捕えて獄に下した。王維もまたその一人であったが、右の詩が粛宗の行在所に伝えられたので、粛宗はこれをよろこび、且つ王維の弟の縉が刑部侍郞の官をやめても兄の罪を許して貰いたいと懇願したこともあって、王維は許されて翌乾元元年に太子中允を授けられ、次々と累進して翌二年には尚書右丞に任ぜられ、翌々年の上元二年、六十一歳で世を終ったのである。

 王維が賊官をけがし、再び唐朝に仕えたことは、儒教的道義観からみれば当然非難されることで、南宋の朱子の如きは、口を極めて非難の声を放っているが、恐らく王維自身も心中無限の苦しみにたえないものがあったことと思う。王維の心境はまたしても深刻にならざるを得なかったのである。実に天宝の乱によって巻き起されたこの事件は、王維に対して最も強い衝撃を与えたもので、これが王維をして益々輞川の別荘に逃避させ、おのれの淋しい心を慰める別天地を求めさせた原因をなしたものと思う。

   (四)
 以上、王維の生涯を通して、彼の思想に変動を与えたと思われる四つの出来ごとを述べたが、これによって彼の詩が出世間的な別天地を求めており、静かな淋しさに満ちている因由もほぼ明らかになったと思う。そしてその傾向が晩年にいたるに従って強くなっていることは当然で、それが輞川の別荘に因んだ詩に特に表われている。輞川の別荘は、彼がいくつの時に営まれたものであるかは明らかでないが、王維が母ために草堂を築いた藍田の地が即ち輞川であるから、恐らく母の死後に一時作られた終南山の別荘と前後して営まれたものであろう。前にも一言した如く、王維はこの地に寺院を建てて母の冥福を祈ったが、母の終焉の地をわが終焉の地と定め、公事の暇ある毎にこの別荘に遊び、竹里館や鹿柴等の二十景の勝地に富んだこの地の自然美を愛し、或は琴をひき、或は詩を賦して、心の憂えを慰めたものであろう。 

 依 遲 動 車 馬。 (依遲として車馬を動かし)
 惆 悵 出 松 蘿。 (惆悵として松蘿を出づ)
 忍 別 靑 山 去。 (靑山に別れて去るを忍ぶも)
 其 如 綠 水 何。 (其れ綠水を如何せん)

 この詩は別【二】輞川別業【一】と題するもので、恐らく輞川別荘の滞在を終えて都に帰る時の作と思われるが、いかに彼が輞川の地を愛していたかが、この詩によって理解できる。輞川の地こそは晩年における彼の生命であったに違いなく、そして王維の心の友であり、詩の友であったのは裴廸その人であった。王右丞集の中に裴廸に関係する詩は実に多いが、特に輞川集二十首の倡和の詩の如きは、如実にこの消息を伝えている。

 (五)
 最後に王維と陶淵明について一言してみよう。王維の詩集を見ると、陶淵明の詩風を襲ったと見るべきものが実に多く、王維の詩が五言の詩に長じているといわれるのも、その一つのあらわれとも見られるが、詩の言葉を比較すればいかに多く王維が陶淵明の詩に影響されているかを知ることができる。いまそれらの比較考証は省略するが、更に彼の詩境もまた淵明に通ずる所が多い。超俗的な、そして自然美に陶酔するところは実に両者に共通する所であり、その限り王維もまた淵明の老荘的な逃避の思想をもっていたといえるが、然し王維は熱心な仏教の信仰者であって、彼の詩に仏教思想の濃厚なことは、淵明に比して特に異なる所であろう。王維の詩が淵明の詩にまして一層幽玄の感を深くしているのはこのためであるまいか。また、陶淵明は人も知る酒好きで、酒に酔って人生を忘れ、そこから不朽の名詩を歌っており、李白や白楽天などは、まさにこれを理想としておったように見えるが、王維には更にそうしたところが見えない。これは王維が深く仏教に帰依しておったことに原因すると思う。旧唐書に、「兄弟皆篤【レ】志奉【レ】佛、食不【レ】葷、衣不【二】文綵【一】。」と述べているのは、この間の消息を伝えたものであろう。これで王維が酒を好まなかった疑問もとける。

 更に両者の相違をいえば、その出処進退の行事については両者全く相反する。陶淵明は四十一歳、帰去来の辞を賦して故郷に帰ってからは、仕進の路を断ち、田園詩人として一生を終えたが、王維は或は左遷され、或は賊官に汚されても官途を断たなかった。経済的事情の相違にも原因したことであるかも知れないが、この点については両者の行動が互に相反する。従って王維は詩風としては陶淵明に大きく影響されているが、その人生観においては必ずしも陶淵明を理想としなかったのである。王維の詩には、桃源行を始めとして、陶淵明に関する詩は多いけれども、それらによって直ちに王維が陶淵明的詩人であり、陶淵明を理想としたと断定することは甚だ危険である。
(昭和二七、五、三一)

(c)Kamata Kunihiko, 2015

(編集部注)
 *原文は訓点付きの漢文。引用に当たって、返り点を除き原文の右に(  )で書き下しを付した。以降に引用されている漢詩も同様。
 **当時刊行していた大修館書店版高等学校漢文の検定教科書名。

当連載について

『漢文教室』は、1952(昭和27)年5月に創刊されました。
 漢文教育振興の気運が高まっていた当時、小社では諸橋轍次先生を編集顧問に、中西清・鎌田正・大木春基・鈴木修次・小林信明・尾関富太郎・牛島徳次の先生方を編集委員とした検定教科書『高等漢文』を発行、雑誌『漢文教室』もこの機に創刊されました。
 漢文教育のありかたについて、また発行教科書について、「理論と実際の両面から活発なる研究を試み、漢文教育の真のありかたを研究する」(諸橋轍次先生「発刊の辞」)ことを目的としてスタートしたこの雑誌は、以来、多くの先生方のご指導・ご支援により、漢文教育界の動向及び最新の教材研究、授業実践等を、全国の先生方にお届けしております。
 当「漢字文化資料館」の「『漢文教室』クラシックス」では、現代の読者の皆様には目に触れる機会の少ない『漢文教室』の古い号から、掲載論考を再掲してご紹介します。

 *各論考は原則として掲載当時の原文に変更を加えずに掲載します。ただし、インターネット上で示しにくい漢字等は、適宜、別字体にするなどの変更をします。図版類についても、適宜、割愛します。
 *論考内で使用されている語や言及されている事実関係については、現在では用いられない表現、現在とは異なる事実等がありますが、各論考の執筆時期をご考慮の上、ご覧ください。
 *「漢文教室」は主に高等学校国語科の先生方にお届けしている雑誌です。(197号以降の号は、大修館書店のサイト「Web国語教室」にて、ご覧いただけます。)

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