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第9回 そうだ 京都 行こう

 紅葉に燃える髙尾、桜吹雪の醍醐寺、青々とした竹林のざわめき……。
 テレビの画面に京都の鮮烈な映像が流れ、 “My Favorite Things”のメロディーが高鳴る。そこに「そうだ 京都 行こう。」のキャッチフレーズ。JR東海が展開する、おなじみの京都観光キャンペーンだが、うまいCMだと思う。
 映像もいい、音楽もいい。が、そのコピーのうまさといったらない。
   そうだ 京都 行こう。
 たった3つのことばを並べ、「。」で締める。「そうだ!」と思いつく感覚をもってきたのもいいが、次の「京都 行こう」は秀逸だ。凡庸のコピーライターなら、「京都へ行こう」とか「京都に行こう」とかにしただろうが、ここは助詞をはずすことによって、京都に行くことを「思い立った」感じをあざやかに表現している。
 助詞を抜くことは口語ではよくある。「お茶 飲まない?」「音楽 好き?」など親密な間柄で使われるが、それは「お茶を」「音楽が」という格の関係が文脈から明白な場合である。そういう意味で、「京都 行こう」はちょっと「破格」な表現なのだが、そのことで決意や驚きなど、いわば話者の「心の叫び」を表しているのだ。
 ただ一文字、助詞のあるなしで、これほどのニュアンスの違いが出るということの見本みたいな話だが、実のところ私も日本語教師になるまで、助詞のことなどあまり深く考えたことがなかった。ところが中国で若者たちに日本語を教えるようになって、日本語というのがいかに大変なシロモノかということが、日を経、年を重ねるごとに身にしみて分かるようになっていった。

 中国人的な日本語としてよく引き合いにだされるのが、「ボク アメ ホシイ」式の助詞抜きことばだ。日本語では「誰が」「何を」などのように、文章の根幹である主語、目的語などの格は、助詞を介して示されるのに対して、中国語にはそれがなく、格関係は語順によって表現される。したがって中国の若者たちにとって、日本語の助詞というのは、とてつもなく厄介な存在なのである。

明るく元気な日本語科2年生のクラスで

 なかでも彼らが苦労するのは「は」と「が」の使い分け。日本人なら誰でも難なく、正確に使いこなせる「は」と「が」を、なんとかマスターさせようと、大量の穴埋め問題を用意して特訓したことがある。次の( )の中に「は」または「が」を入れなさい、というものだが、実際に授業をやってみた結果は予想したほど簡単ではなかった。

 1)この辞書( )とても使いやすいです。これ( )父( )私に買ってくれたものです。
 2)きのう、桜( )満開になったので、多くの人( )花見に出かけました。でも今日( )とても風( )強かったので、桜( )みな散ってしまいました。

 1)の場合、普通に考えれば順に、は、は、が、となるだろう。しかし、「この辞書が」としたとしても間違いとはいえない。もし「どの辞書が使いやすいですか?」という問いの答えだとしたら、「が」が正解ということになる。「が」には「太郎が犯人だ」などというように、「ほかでもなく彼だ」と指定する働きがあるからだ。
 2)の場合はちょっとめんどうだ。まず確実なのは、「今日はとても風が強かったので」だけで、あとは幾通りにも考えられる。たとえば普通は「多くの人が」だろうが、「自分は家で勉強していた」のであれば「多くの人は」になる。とくに最後の「みな散ってしまいました」は、「桜は」か「桜が」か迷うところだ。ま、普通は「満開になったその桜は」とすべきだろうが、「が」でも間違いとは言い切れない。要するに、文脈とニュアンスによるのだが、そのニュアンスというやつがなかなか分かってもらえない。

 さらに基本的な問題として、中国語には、動詞にも形容詞にも活用がない。母語に活用がない分、中国の若者は日本語の動詞の活用に苦労することになる。日本語では学校文法でいうところの五段活用、上・下一段活用、か行・さ行変格活用といったぐあいに、動詞によって活用のしかたも違う。ところが五段動詞には活用に例外がある。「い段」のところで現れる、ご存じ「音便」というやつだ。日本語学習の初期における最大の難関で、一般に「―て形」で練習することが多い。
   「飲む」「遊ぶ」「死ぬ」などは、「―んで」(撥音便)
   「書く」「脱ぐ」などは、「―いて」(イ音便)
   「会う」「待つ」「取る」などは、「―って」(促音便)
 慣れないうちは、というか、逆に慣れてくると、今度は「見る」という上一段動詞を「見って」などと活用させる学生がでてくる。
 母語とは不思議なものだ。日本人ならこんなものは「お茶の子さいさい」なのだが、中国の学生はこれをとにかく覚えるしかない。で、下記のように表にして、これを「結んで開いて……」のメロディーで歌うのだ。
   む、ぶ、ぬ→んで
   く、ぐ→ いて
   う、つ、る→って
   す→して 
 実はこの活用上の例外の中にさらなる例外がある。それは「行く」という動詞。「く、ぐ→いて」となるはずが、これだけはどういうわけか、「行って」と活用する。

 言葉にはルールがあるが、ルールには多かれ少なかれ例外がある。それは分かる。ところがその例外に規則的なものがあったり、さらなる例外があったりする。そもそもルール化できるほどのルールがない場合もある。
 だから例外は、そういうものだ、と割り切って覚えてしまうしかないのだが、「どうして?」と聞いてくる。音便というのは文字通り「言いやすいから、そう言うんだよ」としか答えようがない。ところが例外ですら何らかの「理」をつけないと受け入れられない人間というのはどこにでもいる。私としては、「じゃ、中国語で三声の漢字が二つ並ぶと、どうして最初の三声が二声になるの?」と言いたくなるが、それではケンカだ。
 それはともかく、この音便など、必死で覚えようとする彼らの涙ぐましいほどの努力は、語学で苦労してきた自分には十分に理解できるつもりでいる。

 
中国の大学生は暗誦を厭わない。教室棟のロビーで

 日本語には漢字があるので、中国人にとっては楽だろうという人がいる。たしかに非漢字圏の人に比べれば、心理的抵抗が少ないとはいえる。ところが、なまじ共通な部分があるために、どこまでが共通で、どこからが違うのか、という別の尺度の問題が発生する。日本語としては難しい「範疇」や「躊躇」などの語は、字体は簡略されているが中国語でも意味は同じで、ただ「はんちゅう」「ちゅうちょ」と読みます、と言って先に進んでかまわない。これに対し、「迷惑」や「約束」などは、日常よく使う日本語だが、中国語とそうとう意味が違う。中国では大病院も「医院」だし、熱くても「水」、「湯」はスープを指すなど、非漢字圏からきた学生とはまた別の注意が必要だ。
 中国語は基本的に漢字一つに一つの発音しかない。読み方が二つ以上あるものは「多音字」というが、それほど多くない。それに対して日本語の漢字の場合、中国から入ってきた順に呉音、漢音、唐音があり、日本語の意味を表す訓読みがある。上、下、生など簡単な字ほど多様な読み方があり、人名の読みにいたっては、自由自在だ。たとえば『新漢語林』で「一」の項の「名乗」をみると「い・いち・いつ・おさむ・か・かず・かた・かつ・くに……」と25ほどがならんでいる。彼らにしてみれば、もともと自分たちの先祖が日本人に教えた漢字を、時間がたっているとはいいながら、なんでこんなに苦労して覚えなければならないのかと思うにちがいない。新聞などすらすら読んできて、「渡辺」「長谷川」「久保田」「東海林」などの名前の前で詰まるのを見ると、なんだか申し訳ないような気持ちになってしまう。
 「こそあど」も難しい。「ねえ、この間行ったお店、おいしかったからまた行かない?」という誘いに対して、「ああ、あの店ね」か「ああ、その店ね」か? 中国語には「あの」「その」の区別がないので、彼らは判断に迷う。自動詞と他動詞がはっきりしていないために、「物価があがる」と「物価をあげる」の違いがよく分からない。よって受身、使役の表現も簡単ではない。中国語には有声音(いわゆる濁音)と無声音(清音)の区別がないので、「さとう(佐藤)」を「さどう(茶道?)」といったりする。逆に日本人は中国語にある有気音と無気音の区別が分からず、苦労することが多いのだが……。

 ただ、上記のような発音とか語彙、文法などの問題は、外国語を学ぶ人間なら誰しもぶつかることだ。中国人にとって何が難しいといって、敬語などの待遇表現や挨拶ほどやっかいなものはないだろう。日本人はお客と店員の関係をはじめ、内と外、目上・目下、先輩・後輩、男性・女性などの人間関係にきわめて敏感で、その差違に応じて微妙に言葉を使いわけている。ところが中国人社会における人と人との関係は、家族を除いて日本人ほどに密な、きめ細かいものではない。むしろ疎であり、おおらかだともいえよう。したがって日本語のような、人間関係の密な生活習慣の中から生まれた言葉の感覚を習得するのは容易なことではないのである。
 とりあえず要求されるのは、外国人としての必要最低限の丁寧な言い方だが、それとても相手の日本人の話す言葉がどの程度の敬意をもって自分を遇しているのか、理解できないとアルバイトもできない。その点、現に日本に留学している学生は、中国の大学で日本語を勉強するのにくらべて切実だ。「先生オハヨ」ではすまない。その分だけ勉強もし、習得も早い。朝起きてから寝るまで、日本人と日本語に囲まれて生活するわけだから当然だが、それにしても人間関係そのものともいうべき尊敬語や謙譲語を必死で学んでいるのをみると、その努力にはほとほと頭が下がる思いがする。


いらっしゃいませ、何をお探しですか?(3年生のロールプレイ風景)

 中国で、そして日本で、日本語を教えてきた私だが、毎回下調べをしなければならないことが次から次へとでてくる。正直いって、自分はどれほど日本のことを理解しているだろうかと思うほどである。逆に彼らが間違えるたびに、私はどれだけ多くのことを教えられたか知れない。
日本語を教えるとは、毎日我が身を学生の前にさらし、総点検させられるのに似ている。だから自分のもっている限りの知識を総動員し、あらゆる知恵をしぼり、おおげさにいえば全人格をもって当たることになる。そのひりひりとした緊張感がたまらないともいえる。まるで大舞台で剣道の試合をしているようなものだ。
 考えてみれば剣道にしろ日本語にしろ、今や「日暮れて、道遠し」の感を否めないが、そうであっても、15年ほども前、
 そうだ 中国 行こう。
と思い立ったときの気持ちだけは、忘れないようにしようと思っている。

(c)Morita Rokuro,2015

 

 

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