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『漢文教室』45号(1959年11月発行)掲載

漢文教育と道徳の問題


   (一)
 戦後における道義の頽廃は、道徳教育の昂揚を要請し、昨年は文部省から義務教育、すなわち小学校・中学校の道徳実施要綱が公布され、学校教育において道徳教育が正式に復活するに至った。更に高等学校における道徳教育についても当然実施される勢にあり、先般発表された全国高校長協会の試案の中にも「倫理法經」の科目名が社会科の中に見えている。高等学校の教育課程の改訂は目下文部省において審議されているが、恐らく義務教育との関連から、道徳教育は改訂の一焦点となるものと思われる。

 かくの如く、道徳教育は学校教育における当面の重大問題として抬頭して来たが、これに対する輿論は賛否両論に分れて激しく対立している。否定の立場に立つものは、過去の封建道徳への復活を恐れるものであり、肯定の立場に立つものは、旧来の道徳観念から脱皮して、新時代に適当する新しい道徳の必要を強調するものである。ここに両者の道徳教育の内容に関する食い違いがあり、論争ははてしなく続いている。もっとも肯定の立場に立つものでも、道徳の独立科目を必要とするものと、特に科目として扱わなくとも各教科の学習を通して道徳教育を扱うのが穏当であるという二派に分れている。かくてこの問題は教育界における重大問題となり、近来、各教科の教育と道徳教育の問題が多く扱われる傾向にある。昨年東京都の高校でも「漢文と道徳問題」が研究のテーマとなり(都立北園高校において)、大学漢文教育研究会においても「古典教育と道徳教育」が討論の課題となった(去年十月、東大教養学部において)。

 元来、漢文教育と道徳教育とは不可分の関係におかれ、戦前における教授要目を見ると、徳教の涵養に資することがその目標の一つにあげられている。漢文教育が戦後きびしい批判を受け、一時廃止の運命にまで立ち至ったのは、まさに此の徳教という封建道徳を扱ったことによるとし、今更漢文教育に道徳教育を持込むのは御免であると主張するものもあり、あるいは、政府の今いう道徳教育は、ある政党の一時的政策に左右されるものであるから、将来政変後の教育の変動を考えて、軽率に便乗すべきではない、漢文教育において道徳教育を口にすることは極めて危険である、と主張するものもある。これに対し、漢文教育は道徳教育を真向から取扱うものではないが、学習教材に即して自然と取扱われるのが妥当であるとか、あるいは、漢文教育においては道徳に関する教材が多いから、道徳教育を大いに強調すべきであるという主張も存する。

 かくて漢文教育における道徳の問題も一応論議の対象となっているが、その帰結を見ないというのが現状である。しかしながらこの問題は極めて重大で、いつまでも等閑に付しておくことは許されない。今、特に「漢文教育と道徳の問題」と題してこの問題を論究しようとするのは、如上の情勢からでもあり、又、これに対する見解を率直に披瀝して、御批判を仰ぎたいからでもある。

   (二)
 さて、論究の順序として第一現行高校における漢文教科書の教材が、果して道徳教育と関係あるか否かについて調査して見る必要がある。この調査の前提として文部省の道徳実施要綱に示されている道徳教育の目標なり内容なりを検討すべきであるが、これは便宜上後述することにする。

 高校漢文教科書の教材を便宜上、思想・文学・史学の三領域に分類して調査して見よう。先ず思想について見るに、儒家・道家・法家に関する教材が多い。今、その具体的教材を一々挙げる繁は避けるが、儒家に関するものを見るに、四書が其の中心になっていることはどの教科書も一様である。四書の中、論語が最も多く採られているが、其等論語の文を個々に吟味して見ても、道徳の問題に関連のないものは皆無と言ってよい。忠恕を説き、仁を説き、礼を説く孔子の言葉は、いわゆる修己治人を二大眼目とするものであり、その根底には深い人間愛があり、真摯にして、積極的な救世の熱情が溢れている。この孔子の教義なり人生観が封建道徳として葬り去られてよいものであろうか。又、孟子に至っては性善説を根幹として仁義・王道を説き、道義の実践によって得られる浩然の気を説き、道徳に根ざした大勇・大丈夫の教を強調している。人間性の探究に基づくこの孟子の教義が今日の社会生活において何等価値のないものとして顧みられないでよいであろうか。更に大学の書を見ても、三綱領八条目を骨子として展開する道徳思想は実に孔子以来の教義を整理せるものであり、中庸に至っては性道教の一致を説き、誠の哲学を強調して人間修養の極致を述べている。特に誠に至る工夫を探究して、是非善悪を明らかにするに在りと述べている所は、道徳生活への根本を端的に示したものであり、愚より賢、困知より生知に至る為学の道を力行に求めるあたり、誠に人間向上の真摯な努力を教えて余す所がない。荀子に至っては、孟子の性善説に対し性悪説を主張すると言っても、それは乱世に処する道徳生活の積極的な願いからであり、社会の安寧秩序は一に礼義道徳の実践に在りと説くのである。

 以上は教材に表われた儒家思想の道徳性を一瞥したのであるが、儒家の道徳は、過去の封建道徳として、これに目を蔽うことは、果して現代社会において当を得たるものであろうか。更に道家の教材を調査して見よう。老子の思想は高校生徒の理解に困難があるので、比較的少ないが、謙下不争、柔弱の教を説く老子の人生観は、時に儒家の積極的なものに対して消極的な印象を与えるが、処生の教として傾聴すべきものが深々として蔵されているではないか。特に其の三宝を説き、戦争を否定する思想の根柢には、道徳の根本ともいうべき人間愛が溢れている。これは孔子の仁、釈迦の慈悲、キリストの愛とも相通ずるものであって、老子におけるヒューマニズムは改めて吟味さるべきであろう。荘子に至っては時に論理の抽象を弄び、脱俗的傾向に富んでいるが、其の名利に恬淡たれの教は、老子の教を継承して、ともすれば出世主義に走った過去の弊害を批判是正するに足るものがある。一般に道家の思想を帯びるものは、消極的な人生観の傾向があるので、進取活潑な青少年の心理に適合しない向きもあるが、儒家の積極的なものと対比して、処生の一方途を示唆するものがある。この点も亦道徳思想において注目さるべき所である。

 道家に続いて、法家の教材を見るに、韓非子が其の代表的なものとなっている。伝統的保守的な儒家の道徳中心の思想を否定して、新しい時代に適応する治世の方策を法治の絶対に求めているあたり、まさに現代的な臭いがするが、其の法治の絶対を主張した法家の末路はどうであったか。商鞅・韓非の哀れな最期を見ても、はた又秦国の末路を見ても、事実の上に明らかなことではないか。今日道徳教育の内容が面白くないと言って、意識的にこれより逃避し、あるいは積極的に反対する一派は、まさにこの法家の運命に思いを致すべきである。ただ韓非のいう如く、過去の道徳のすべてが時空を超えて恒常不変であるとは考えられないから、新時代に適応する新しい道徳を探究樹立すべきことは言うまでもない。

   (三)
 以上は主として思想教材に関して述べたが、更に進んで文学教材について調査して見よう。文学教材を詩と文との二面に分けて考察するに、詩においては自然の美を歌い、人間の真情を吐露し、友情を述べ、あるいは乱世を歎き、軽薄なる世相を憤るものが極めて多い。理屈抜きに道徳的情操を高め、人間性をゆたかにするものは、詩の学習において最も期待できるではないか。現行の漢文教科書は、戦前に比して詩の教材が圧倒的に多いが、如上の見地からしても喜ぶべき傾向である。又、文について見ても、詩と相通ずるものが多い。李密の「陳情表」にしても、韓愈の「祭十二郎文」にしても、あるいは白居易の「與【二】微之【一】書」(※【 】は返り点)にしても、読むものをして感動の極、誠にほろりとさせるものがある。それは偽らざる愛情の告白であり、人間共通の魂の叫びであるからである。こうした教材が、文の読解に伴なって自然に感得させる道徳的心情は、真向から道徳を説くものよりは、寧ろ効果のあることは論をまたないところであろう。又、唐宋の文章には、韓・柳を始めとして「道」を説くものが少なくない。学問・思想の根柢に道徳の必要を説いている唐・宋の文豪の精神も亦深く味わって見るべきである。

 文学に続いて史学の教材について見るに、史記や十八史略が多く見受けられる。それらの教材は史実それ自体に存する興味は勿論であるが、その史実に画かれている人間像、その成敗得失の転変において、深く考えさせるものが少なくない。史記の項羽本紀を読んでも、剛強なる項羽の烏江における最期は、読む者をして涙暗然たらしめるものがある。人の将に死せんとするや其の言善し、彼が亭長の好意を退け、「何んの面目ありてかこれを見ん」と言って果敢なく自尽して行った項羽の人間性。あるいは草廬三顧の知遇に感激して身を起し、出師表をものし、五丈原頭に散った孔明の忠誠。あるいは「吾は至誠を以て天下を治めん」と言って貞観の治を来たした唐の太宗の至誠。此等史実の教材は、すべて封建的な君臣の道徳というべきであろうか。今日の為政者・社会人に対する心構えに何等プラスするものがないといえるであろうか。

   (四)
 以上、漢文の教材と道徳との関連を概括的に一瞥したが、然らば如上の如き道徳思想が果して今日の道徳と合致するものであろうか。ここが重大な問題である。この論究の資料として、文部省の道徳実施要綱に見える道徳教育の内容をあげて比較検討して見ることにする。ただこの要綱は、小学校と中学校(各別々に)を対象とするもので、高等学校におけるものは、来るべき高校の教育課程の改訂の際に示されるものと思われる。従って高等学校を対象とするものは不明であるが、恐らく中学校のものに比して更に高度の内容を持つものと想像されるが、今しばらく中学校の要綱を資料として考えて見よう。

 要綱の内容は、趣旨・目標・内容・指導方法・指導計画と展開の五項目から成っている。先ず第一の趣旨の中には、

児童生徒に望ましい道徳的習慣・心情・判断力を養い、社会における個人のあり方についての自覚を主体的に深め、道徳的実践力の向上を図る。

とあり、第二の目標の中には、

個性豊かな文化の創造と民主的な国家および社会の発展に努め、すすんで平和的な国家社会に貢献できる日本人を育成することを目標とする。

とある。これらは抽象的な説明であるが、更に第三の内容について見ると、

道徳教育の内容は、教師も生徒もいっしょになって理想的な人間のあり方を追求しながら、われわれはいかに生きるべきかを、ともに考え、ともに語り合い、その実行に努めるための共通の課題である。

と前提し、

Ⅰ、道徳性の基盤としての日常生活の基本的行動様式を身につけ、活用できるようになるための必要な具体的内容を示すもの

Ⅱ、個人個人が、自律的に道徳的価値を追求し、それを対人関係の中に生かし、豊かな個性と創造的な生活態度とを確立していくために必要な具体的内容を示すもの

Ⅲ、家庭、学校、国家社会のような集団の成員として必要な道徳性を高めていくために必要な具体的内容を示すもの

の三領域の立場から、具体的内容を指示している。第一の領域は、いわば日常生活における基本的なしつけに関するものであるが、その第一に掲げてある、

生命を尊び安全の保持に努め、心身ともに健全に成長と発達を遂げるように励もう。

は、実に生命の尊重と個々の成長発達に関するもので、道徳の基本ともいうべきものである。儒教は、ともすると「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」とか、「身を殺して以て仁を成すことあり」と言った面が強調されているので、生命よりも道義の優先を説くように聞える。然し生成化育を説き、修己を重んじ、人間愛を基調とする儒教が自己及び他人の生命を尊重し、個の十全なる発達を説いていることは言うまでもない。特に老荘に至ると、天長地久を仮りて長生の道を説き、或は小国寡民の理想郷を論じて「死を重んじて遠く徙らざらしむ」と言い、荘子に至っては「全生保身」を養生主の眼目としている。

 第二の領域についてみると、「道徳的な判断力と心情を高め、それを対人関係の中に生かして豊かな個性と創造的な生活態度を確立していこう」という目標のもとに十項目があげられている。その中で特に漢文教育と関連するものをあげると、

(1)人間としての誇をもち云云の項に、「生物的な欲求・衝動をおさえ、冷静に考えて正しいと信ずることを実行する云云」のことが述べられている。孔子は天命を自覚して道義的生活を行うことを説き、又、儒家全体の思想として寡欲、制欲を説いていることは今更論ずるまでもなく、更に老子においても寡欲を説いている。

(2)全ての人の人格を尊敬して云云と人間尊重を述べているが儒教においては敬を説く。己を敬して自己の完成を期すると共に、他を敬してその人格を尊重することは、随所に見られる所である。

(3)つとめて謙虚な心をもって他人の意見に耳を傾け、自己を高めていこう、については「省みてすぐれた先人の生き方に學び、自己のよりいっそうの向上を心がけるよう」と補足しているが、論語にいう温良恭倹譲、賢を見ては斉しからんことを思う、大人を畏れ、聖人を畏る、孟子のいう読書尚友、老子の謙下不争の教がまさにこれに適合する。

(5)あやまちは率直に認め、失敗にはくじけないようにしよう。論語・孟子には改過遷善に関する教が多い。過っては改むるに憚るなかれ、君子のあやまちは日月の食の如し等々、人間修養に改過の必要を強調している。

(7)常に真理を愛し、理想に向って進む誠実積極的な生活態度を築いていこう。人間の真を探求し、高い理想の実現に向って真摯積極的な努力を続けたのは孔子以来儒家の特色であり、宋儒が居敬窮理をふりかざして宇宙人性の真を探求した努力は、今日の科学における真理の探究と相通ずるものがある。

(8)真の幸福は何であるかを考え、たえずこれを求めていこう。これに関するものは儒道二家といわず、詩といわず誠に多い。「疏食を食らひ水を飲み、肱を曲げて之を枕とするも、樂み亦その中に在り」と言った境地は「やせがまん」として冷笑する者もあるであろうが、「内に省みて疾しからずんば何をか憂へ何をか懼れん」の境地は、また人生の至上の幸福であり、孟子の三楽も亦これに言及している。老荘や陶淵明などにおける名利に恬淡たる生活の幸福は、これ亦深く玩味すべき所ではあるまいか。母を奉じて吉野に遊び、「宰相たるに勝る」と言い、母を送って「五十の兒七十の母あり、此の福人間得ること應に難かるべし」と歌った山陽の幸福、数えれば際限がない。

(9)情操を豊かにし、文化の継承と創造に励もう。情操を豊かにする教材の詩文に多いことは既に述べた所であり、文化の継承と創造は古典教育の使命でもある。

(10)どんな場合でも人間愛を失わないで、強く生きよう。人間愛は上述の如く、儒道二家の説く所であり、詩文にも多く見える所、特にどんな場合でもこれを失わないで強く生き抜こうとする教は、儒家の思想に強い。救世の熱情に燃えて十数年も乱世を説き廻った孔子の行動には、強い人間愛があり、あくまでも現実を捨てずに強く生き抜こうとした積極的誠実さがある。

 次に第三の領域について見るに、

(1)家族員相互の愛情と思いやりと尊敬とによって、健全な家庭を築いていこう。家族の愛情・道徳は夙に儒家の説く所であり、儒家はこれを家庭より社会に及ぼそうとするものである。父子の慈孝、兄弟の悌友、それらが家庭に養われてやがて社会における人間愛となり秩序を維持する道徳に発展する。又、お互の立場を理解するという思いやりは、論語にいう恕であり、大学に説く絜矩の道である。

(2)お互を信頼し合い、きまりや約束を守って、集団生活の向上に努めよう。お互が正直誠実で信頼し合う生活、これこそ集団生活における重要なことであるが、朋友の信を説く儒家思想、多くの詩に見える友情や信義は、やがて集団生活における道徳へと展開する素地をなすものであり、きまりや約束を守る道徳は、礼の規範の実践においても説かれる所である。

(4)悪を悪としてはっきりとらえ、決然と退ける強い意志や態度を築いていこう。中庸に説く「善を擇んで固く守る」教、孟子に説く是非の心、大勇、大丈夫の教である。

(5)正義を愛し、理想の社会の実現に向って、理性的、平和的な態度で努力していこう。道義の世界を理想とする儒家思想には、これに関するものが極めて多く、老子もこれを説いている。

(6)国民としての自覚を高めるとともに国際理解、人類愛の精神をつちかっていこう。漢学が我が国に伝わって我が国の徳教をつちかい、我が文化の形成に与って力のあることは言うまでもないが、古典教育によって過去の文化の源流を探求し、文化の伝統を愛するに至るのは、やがて国民的自覚を促すものであり、人類愛を説き四海同胞を説く儒教道徳が、国際理解、人類愛の精神を啓培することに役立つことは当然である。若し独善的、排他的思想が過去の漢学によって養われたと見るものありとせば、それは漢学の精神、儒教道徳の真を知らざるものの偏見である。

   (五)
 以上、道徳実施要綱の内容と漢文教育における道徳教育とを思いつくままに比較して見たが、その相関はそれぞれの一項目についても千語万語を費す程に深いものがあろう。してみると、漢文教育における道徳思想は実施要綱の精神にも深く関連し、又合致するものが多い。従って漢文教育の道徳思想を古い封建道徳として排除することは当を得てないという結論となる。ところがここに一つの問題がある。漢文教育においては道徳の問題は説く必要はない、指導要領を見てもそんなことは述べられていないではないか、と主張する向きがある、現行高校の国語科の指導要領を見ると漢文学習の目的を規定して

(1)訓点のついた漢文について、それを読解する豊かな能力が身につき、あわせて批判や鑑賞ができる。

(2)(1)の学習を通じて、漢文に盛られている文化、特にわが国の言語・文学・思想などと関係の深いものについて、その特質・意義がわかる。

と述べている。この二項の目標の中には特に道徳教育に関する指示がないという見解によるものと思われるが、(1)の批判や鑑賞においては、当然思想に言及するものもあり、そこには道徳思想にわたるものがあろう。又、(2)のわが国の思想と関係の深いもの云云は、徳教すなわち道徳思想が問題となる。過去の道徳思想には一切目を蔽うべきだというのか。過去のこの厳然たる事実に目を蔽うては、文化の伝承も更に新文化の創造もあり得ないではなかろうか。指導要領には特に道徳教育について明言してはおらないが、右の内容から当然これにわたるものが含まれているし、そもそも学校教育の目的は、指導要領一般編に明示するように、教育基本法に準拠するものである。教育基本法第一条には教育の目的を規定して、

教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

とある。これはまさしく道徳実施要綱の骨子となっているもので、この基本法の精神は学校活動の全般を通じて行われるべきものである。されば各教科の学習においてもこの精神に基づくことは当然であるから、各教科の指導目標にはこれに関するものを省略しているのである。漢文学習の目標に道徳教育に関するものが示されていないからと言って、これを避けようとする考えの誤っていることは最早明らかであろう。まして道徳実施要綱の趣旨には、

学校における道徳教育は、本来学校の教育活動全体を通じて行うことを基本とする。従来も社会科をはじめ各教科その他教育活動の全体を通じて行ってきたのであるが、広くその実情をみると、必ずしもじゅうぶんな効果をあげているとはいえない。このような現状を反省して、ふじゅうぶんな面を補い、さらにその徹底をはかるため新たに道徳の時間を設ける。

と述べられている。これによると、道徳教育は各教科を通じて行うのが学校教育の基本線である。漢文教育、しかも道徳思想に関連する教材の多い漢文教育において、これに無関心であってよいという主張は到底成り立たないではないか。

    (六)
 漢文教育において道徳教育の行われるべきことは、以上によって明らかにされたと思うが、ただ誤解してはならない。漢文教育は決して道徳教育を第一義として行われるべきものではない。前にあげた指導要領の目標にもあるように、豊かな読解力をつけ、わが国の言語・文学・思想などとの関係について、その特質や意義を探究することが根本である(漢文教育の目標については、昭和二十六年度版の指導要領の方が詳細に述べられている)。従って漢文教育はこの第一義に向かって行われるべきものであるが、教材それ自体に道徳思想に関連するものが多いから、それについて批判させ、道徳の心情を育成する上に役立てるべきである。ただこの際、特に注意すべきことは、指導者の独善的一方的見解によって、それを押しつけるのでなく、あくまで生徒の自主的判断に待つべきである。実施要綱にも、

教師の一方的な教授や単なる徳目の解説におわることのないように、特に注意しなければならない

と注意を促しているし、「社會における個人のあり方についての自覺を主體的に深める」と述べている。

 言うまでもなく、時代は新しく変ったのである。老子の言う如く、過去の道とされたものが現在の道であり得ないものもあり、韓非の言う如く、過去の道徳をもって現在に適用できないものもある。新しい時代と共に新しい道徳が作られていくのは当然のことである。ただ然し新しい道徳と言っても、恒常不変のものもあり得るし、時代の変遷に伴なって変りゆくものもある。いかなるものが恒常不変であり、いかなるものが新しく作らるべきかは、これこそ道徳教育において真剣に探求されなければならない。漢文教育における道徳思想は、すべてが恒常不変のものであるか否かは検討の余地があろうし、又、新しい道徳を樹立する上において摂取すべきもの、又、その手がかりとなるものも多いことであろう。しかも新しい道徳は一朝一夕にして作られるものではない。戦後たかだか十数年にして理想的な新道徳が樹立される筈のものではない。実施要綱もその意味においては、その第一歩を踏み出したというべきである。まして高校教育における道徳教育は更に高度のものとなるべきである。文化形成の担当者とし国民の根幹となる者の道徳教育のあり方は更に探求されなければならない。

 漢文教育において、道徳教育はその第一目標として強調すべきではないが、漢文には他の教科に比して特に道徳に関連するものが多いから、十分これの取扱いに関する注意を払い、教材の理解に即して自然にこれに言及するようにし、生徒の自主的理解判断に訴え、新しい道徳生活への手がかりを与え、人間いかに生きるべきかの道を探究させる。これが漢文教育における道徳教育であろう。道徳という言葉がきらいであるとか、特定政党の一時的政策であるからときめこんで、これに言及することを嫌厭するが如きは私の取らないところである。(昭和三四、九、二〇)

(c)Kamata Kunihiko ,2015

当連載について

『漢文教室』は、1952(昭和27)年5月に創刊されました。
 漢文教育振興の気運が高まっていた当時、小社では諸橋轍次先生を編集顧問に、中西清・鎌田正・大木春基・鈴木修次・小林信明・尾関富太郎・牛島徳次の先生方を編集委員とした検定教科書『高等漢文』を発行、雑誌『漢文教室』もこの機に創刊されました。
 漢文教育のありかたについて、また発行教科書について、「理論と実際の両面から活発なる研究を試み、漢文教育の真のありかたを研究する」(諸橋轍次先生「発刊の辞」)ことを目的としてスタートしたこの雑誌は、以来、多くの先生方のご指導・ご支援により、漢文教育界の動向及び最新の教材研究、授業実践等を、全国の先生方にお届けしております。
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 *「漢文教室」は主に高等学校国語科の先生方にお届けしている雑誌です。(197号以降の号は、大修館書店のサイト「Web国語教室」にて、ご覧いただけます。)

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