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第2回 ギョエテとは俺のことかと……

 日本人は漢字の知識があるため、中国語の初歩を勉強しただけで、ちょっとした文章なら読める気になる。中国語の音を知らなければ朗読すらできないわけだが、私も調子にのって、そうとう高級な文章でも読めるつもりになっていた。
 そんなふうにして「黙読」していくと、辞書を引いても意味が分からない単語にときどきぶつかる。一字一字の意味を再確認しながら考えるのだが、どうにも文全体としての意味が通らない。さんざん苦労した挙げ句、それがなんと欧米の人名や地名の音訳語であることに気がついて拍子抜けすることがあるのだ。
 例えば、<奥巴马>アメリカの大統領オバマ、<普京>ロシアの大統領プーチン、<维那斯>はミロのビーナス、最近の話題でいえば<埃博拉>エボラ出血熱といった具合だ。

  もちろん中級にもなれば、たくさんの音訳語に接し、経験もふえて見慣れない漢字の羅列を見ればハハァと勘が働くようになるし、文脈からも見当がつくようになる。が、初心者のころは、漢字だらけの文章(中国語だから当然だが)の中に、突然、記号などのなんの情報もないままこの漢字の羅列がでてくるので、つい意味を考え、<奥巴马>を馬の種類かと思ったり、<普京>を北京や南京とならぶどこかの都市の名と間違えたりしてしまうのだ。

 私は音楽が好きなので、北京でもよくCD屋さんを覗きにいったが、そこには、<巴赫><海顿><莫札特><贝多芬><勃拉姆斯><德沃夏克><柴可夫斯基><门德尔松><肖邦>などの音楽家のCDが並んでいて、行くたびにまるでクイズを解くような思いをしたことだった(さてこれらは、いったいだれのことでしょう? 答えは文末に)。

私は誰でしょう?  私は誰でしょう?

 

 日本同様、中国においても、外国の地名人名は原語音を尊重する。つまり、元の発音にちかい漢字を当てて表記することになっているわけなのだが、字に意味があるのが漢字だから、どうしても文字づらに引きずられてしまう。かといって、音を聞いたらすぐ理解できるかというと、これがまたとまどうことが多い。
 当たり前のことながら中国語は中国語独自の音韻体系をもっており、しかもトーンが上がったり下がったりする声調(北京語では4つ)があるので、私などには原音とは相当離れて聞こえる。

 北京の街を歩いていると、どうしてこの英語に、この漢字を当てるのだ?と首をかしげたくなるような音訳語に出くわすことが、ままある。例えばCatchという会社名に<凱奇>と漢字が併記してある。<凱奇>は、中国語の発音表記法(拼音(ピンイン))ではKaiqi、カタカナで書けば「カイチー」というような発音になる。しかもこの字は声調(声のトーン)が第3声と第2声なので、アクセントが前にある英語のcatchの発音とは似ても似つかぬものだと思うのだが、彼らは平気なものである。

 それだけではない。中国における外国の固有名詞の表記をさらに複雑にしているのが意訳語の存在だ。つまり音でなく、意味から考えてそれに該当する漢字を当てる。典型的な例は<热狗>で、現代中国語で<热>は熱い、<狗>は犬のことだから、まさにhot dogだ。
 さらにさらに、一つの単語を意訳と音訳の二つの要素を混ぜて表記するケースもけっこうある。有名なのは<剑桥>ケンブリッジ。「剣」が音訳で「橋」が意訳だ。ほとんど冗談かと思ってしまう。同様に<星巴克>スターバックスは意訳+音訳のケースだ。

北京にあるスタバの看板
北京にあるスタバの看板

 

 日本人の場合、漢字の意味が分かる分、音に弱いところがあるので、音訳語の見当をつけにくいという事情もあるにはあるのだが、中国人自身はこの漢字による音訳語が原音に近いと信じて疑わない。
 逆に日本語を学んでいる中国の学生たちは、日本のカタカナ語が苦手だ。彼らも漢字に頼って日本語を勉強するので、ひらがなが続くだけでつまずく。だからカタカナがでてくると「固まって」しまう。
 たしかに日本のカタカナ語表記だって、原音に忠実かといえば危ないもので、中国人からみて原音を類推するのは、やはりむずかしいということになる。まあ日本語では外国語はカタカナで表記されるのだから、それだけ分かりやすいと言えば言えるのだが……。

 ある日の日本語の授業、新聞講読の時間にロシアの「サンクトペテルブルグ」という地名がでてきた。まずはこのカタカナがなかなか読めない。声に出して読むのに彼らはものすごい苦労をする。やっとすらすら言えるようになったところで、どこ?と聞くと分からない。で、昔のロシア帝国の首都だったところだというと、「ああ、ション・ピーダーバオかぁ」との反応。こんどは私がその中国語が聞き取れず、黒板に書かせてやっと理解した。<圣彼得堡>。「サンクト」は英語でいえばSaintだから<圣(聖)>で意訳、「ペテル」の<彼得>はPeterの音訳、すごいのは「ブルク」<堡>だ。中国音は「バーオ」で英語のborough、ドイツ語ならburgなどの音訳であり、しかも<堡>の意味は「砦、城」なので、意訳にもなっているという凝ったもの。<爱丁堡>も同様にエジンバラ。

 この中国人の、なんとしてでも漢字で表記しようとする情熱というか、漢字へのこだわりには驚かされる。20世紀の初め「漢字は国を滅ぼす」との考えから、何千年にわたる漢字の歴史を捨ててアルファベット化しようとまでした国が、である。

  もっとも中国の、この漢字による外国語の音訳というのは、別に最近になって始まったことではない。考えてみれば、紀元前の昔から行われてきたことである。周辺の国々に文字がなかったという事情もあって、外国の地名・人名はすべて漢字で表記されていた(というより、記録は中国にしかなかった!)。
 「邪馬台国」も「卑弥呼」も中国古代の歴史書にあらわれた外国の人名・地名の音訳語、二千年ほども前の中国人が、日本語の音を聞いて当てた漢字だった。「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」という戯(ざ)れ歌があるが、邪馬台国の女王・卑弥呼も、「はて、わらわのことか?」と首をかしげるかもしれない。

 (c)Morita Rokuro,2015

 

(クイズの答え:上から順にバッハ、ハイドン、モーツアルト、ベートーベン、ブラームス、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、メンデルスゾーン、ショパン)

 

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