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◇PartⅡ 文字としての甲骨文

                        ──文字を通して見る殷人の世界──

 

高久由美

 

   今回は、「日・月・年」という時に関する身近な漢字を例にして、甲骨文字とはどのような文字なのか、占いの実例を見ながら解説する。いずれも甲骨文の時代から現代まで、字形的な連続性をもって使われ続けている、時を刻すのに欠かせない漢字である。

 

〈甲骨文の日と月──殷人にとっての昼と夜──〉

   「日」と「月」という漢字の現存する最古の姿は、甲骨文では のような形を呈し、漢字の成り立ちを示す「六書」[りくしょ]【1】の分類では、象形(目に見える物をかたどった文字)とされる。字形も見ての通り、丸い太陽の形と欠けた月の形をかたどっている。これらの文字はもちろん天体としての太陽と月を意味しているが、それのみならず殷人にとって は、昼と夜を意味する文字でもあった。このことは太陽が出ている昼間の時間帯と太陽が不在となる夜間の時間帯をはっきりと区別していた殷の人々の太陽観を表わしている。かれらは、実は太陽は10個あって、それらが順番に10日間にわたって繰り返し出てきて世界を照らしている、と考えていた【2】。 はその日の太陽が西の空に沈んだ後の時間を意味し、人々はその間を不安と恐怖の暗闇の中で過ごさねばならなかった。「今夕亡𡆥?」(これから夜間のあいだに憂いはないだろうか)という占いは、日の出までの一夜の無事を願って占いをおこなっていたものである。

   昼と夜の吉凶についての占い以外に、昼と夜の天候について占ったものもある。「今日雨」(今日に雨ふらんか)と「今夕雨」(今夕に雨ふらんか)は、ある日の昼と夜それぞれについて、降雨の有無を問うたものである(図①-1,2)。現代では「夕」の字といえば夕方、すなわち日暮れ前後の数時間程度を意味するが、この占いの中の が対をなしていることからわかるように、 は日の出から日の入りまでの時間帯、 は太陽が没してから次の日の出を迎えるまでの時間帯を意味している。現代人の「夕方」に対する感覚からすると、殷人にとっての「夕」は思いのほか長時間に及ぶものである。太陽をめぐって日々繰り返された占いを見ると、殷人の日常は太陽を中心とした世界観で成り立つ日々であったことが見て取れる。

【1】中国最古の字書『説文解字』にある、漢字の成り立ちと用法をといた「指事・象形・形声・会意・転注・仮借」のこと。

【2】この10個の太陽をめぐる殷代の人々の世界観をより緻密に解説した読み物として、松丸道雄先生の「殷人の観念世界」(大修館書店『甲骨文の話』2017年刊、所収)があるので、興味ある方はぜひ手にとってご一読いただきたい。

               図①-1           図①-2

 

〈時期によって字形がかわる月と夕──複雑な字形変化──〉

   太陽を表す日に対して月の字形はより複雑で、 のように時期によって三日月の中の線や点の書かれ方に字形差がある。こうした字形の変化について解説する前提として、甲骨文の時期区分にふれておこう。甲骨文は第22代殷王・武丁から第30代殷王・帝辛まで、殷後期の9人の王の在位中に使われていたもので、殷墟の発掘を中心となっておこなった甲骨学者・董作賓[とうさくひん 1898~1964]によって第1期から第5期に時期区分されるようになった(図②)。そこにはすでに複雑な字形の変遷が見て取れる。ここで月(moonやmonthの意味)と夕(nightの意味)を表す文字を例に、時期による字形の変化を見てみよう。第1期(武丁期)の亀の腹甲上に、その夜に月食があることを記して「…之夕月有食…」(之の夕、月に食する有り)とある(図③)。夕と月の字形を比較すると、 は夕night、 は月moonで、意味により字形に違いがあることがわかる。ところが甲骨文第5期に至ると、字形と意味の結びつきは逆転して、monthやmoonの意味では が、nightの意味では が用いられるようになった。

                図② 董作賓による5期分類

 

 

                    図③

 

〈年と歳と祀──年はyearの意味ではなかった──〉

  『爾雅』という古典文献の中の天文や暦法に関する言葉を集めて説いた一節に、「(一年という時の長さを)夏代では歳といい、商代では祀といい、周代では年という」(釈天篇)と説明している箇所がある。つまり、一年という時の長さを言うのに王朝ごとに異なる言い方があったというのだが、果たして甲骨文字の世界ではどうだろうか。

  「年」という字の成り立ちについて、中国最古の字書『説文解字』には「年、穀が熟すなり。禾にしたがい千の声」とあり、音符の千と意符の禾からなる形声字と分析される。甲骨文の「年」もこれに近く、 のように書き、上に (禾)、下に (人)から成り、 (実ってこうべを垂れた穀物)が意符で (ジン)が音符である。意外かもしれないが、甲骨文の「年」は、「一年」という地球が太陽の周りを一回りする時間の長さを表わす意味ではなく、原義は年に一度の農作物の収穫を意味していた。もともと甲骨文の占いの中では、「年」は穀物が実るという意味で、「稔」〔みのり〕の字として使われていたといえる。「受年」(みのりを受けんか?)のように占われ、黍〔きび〕や麦などの穀物の収穫前にその豊作を占う時に用いられていた。こうした卜辞は「受年卜辞」とも称されて天に農作物の豊穣を祈求する殷人の日常が見て取れる。

   では、「一年」という時の長さはどのように表されたか。次の占いの例を見てみよう(図④)。

   癸丑卜貞今歳受禾引吉在八月隹王八祀

      癸丑〔の日に〕卜す。貞す、今、禾[か]〔=の意味として解される〕を受けんか? 引吉。       八月に在り。これ王の八[し]。

                     図④   

これは第5期(帝乙帝辛期)の甲骨上の一文だが、一片上に「年・歳・祀」の三字が出現し、占いの内容から各字の意味の違いが見て取れるという興味深い卜辞の例である。年は前述したように穀物の豊作を意味し、歳は穀物の収穫期を意味する。そのシーズンの穀物が稔り豊かになるかを問う占いで、いずれも禾〔いね〕や麥の栽培に従事していた殷人の農業との関わりが深い漢字である。この甲骨文でyearの意味を表わしているのは実は「祀」の字で、文末に記された「これ王の八」は、現在の殷王が即位して8年目ということを意味しており、これを後の言葉で「紀年」という(祀がなぜyearの意味を表わすようになったかについては、殷王室の複雑な祭祀体系と関係していると考えられている)。王の在位年数を銘文に紀年として記すのは殷人から周人に引き継がれるが、周の文化では「隹れ王の九」(これ王が〔即位して〕九年)のように、「年」の字が「祀」の字にとってかわっていく。

 

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