医学をめぐる漢字の不思議
正解が定まらない「楔」
「楔」という字をご存じだろうか。
常用漢字表には載っておらず、知っているとしたら世界史で習う「楔形文字」や、楽曲名で「楔」というのがいくつかあるのでそういったところからだろうか。訓読みで「くさび」と読まれることが大半だと思うが、では音読みされるとしたら何と読むか。自信をもって答えられる人は少ないだろう。実は医学用語の中には「楔」を使う用語がいくつかあって、その読み方もしっかりと定まっていない。わたしはこの「楔」をひたすら追いかけたことがあるので、ご紹介したい。
「楔」という字が熟語に使われるとき、何かの形を「楔」自体の形になぞらえている場合が多い。楔形文字がその筆頭だ。「楔形」は「くさびがた」と読まれることが多いが、中には音読みされることもあった。国語辞典には「ケッケイモジ」や「セッケイモジ」のところに載っている。1956年5月24日付の読売新聞の投稿欄によると、世界史で「キッケイモジ」と読むと習ったという人もいるという。「ケツ」「セツ」「キツ」の3つが出てきたが、漢和辞典に載っているのは実は「ケツ」「セツ」「カツ」の3つで、「キツ」はない。「キツ」は「喫」から類推された誤った読みなのだろう。いろいろな辞書辞典や新聞のルビなどをチェックしていったが、これら複数の読みは明確に使い分けられることもなく使われていた。そのため「楔形文字」を音読みで何と読んだらいいのかに対する正解がひとつに定まらなかったのだ。ひとまずはややこしいので「くさびがた」と訓読みしておくのが穏当だろう。
医学用語はどうだろうか。「楔形文字」をどう読もうが死人はでないだろうが、医学用語の伝達ミスは時として命につながる。「楔」の読み一つでそこまで発展することはないと思うが、専門用語というのはしっかりと定まっていることが大切なものなのだ。
医学用語にも「楔状」ということばが時々使われる。足の骨の名前である「楔状骨」、骨粗鬆症などで背中の椎骨が変形した「楔状椎」、外科手術の切除方式の一つの「楔状切除」など。それぞれの用語を管轄する学会の用語集に読みが書かれていて、「くさびジョウ」「ケツジョウ」「セツジョウ」という読みがあった。中でも「楔状」は「ケツジョウ」と読むのがどうやら優勢のようだ。学会の中でも2つの読みを認めたり、学会ごとで読みが異なったりしており、やはりここにも一つの正解はない。
医学用語にはもうひとつ「楔」を使うものに「楔入」という語がある。「楔を打ち込む」ということばがあるように、はまりこんだり、食い込んだりしているさまを意味しているようだ。ここで「ようだ」といったのはこの「楔入」は国語辞典などに載っていないのだ。戦時中の新聞で突入作戦の一形態として「楔入作戦」というのがみられたが、そこに少し使われる程度で他にはなかなか用例が見つからない。医学界で使われるようになったのは、1954年の三瀬淳一「所謂肺毛細管圧(1)」という論文の中で「楔入圧」という語がつくられたのが始まりだ。三瀬はその論文の中では「ケツニュウアツ」とわざわざルビをふって読ませていた。しかし、その後各学会の用語集には「ケツ」「セツ」「キツ」などの読み方が出現し、同じ教科書や用語集の中でも版が変わると読みが変わるなど、かなり揺れてしまっていた。「キツ」はすでに見られなくなったが、「ケツ」か「セツ」か、今でも唯一の「正解」と呼べるものはない。
どうして医学用語の中でも読みが一定しないのだろうか。これは一見当たり前で、上にのべたように医学分野以外でも正解がないから、という理由が一つある。医療関係者が読み方に困って辞書や辞典をひいても結局どう読んだらいいのかわからない。医学用語の用語集を作ろうとしてもそこがネックになる。前回の「腔」の読みのように、「世間では決まっていないけど医学用語ではこう読むのだ」というのをバシッと決めてしまってもいいと思うが、どうもそこまで至っていないらしい。
この調査を行ったのは6年ほど前になるのだが、そこから現在までにも用語集の改訂は行われている。『呼吸器学用語集』第5版は2017年に作成されたが、「楔入圧」の読みを第4版ではなぜか「ケイ」としていたのを第5版では「セツ」にしている。産婦人科領域で「楔入胎盤」という用語集に載らない用語があったが、2018年の『産科婦人科用語集・用語解説集』改訂第4版ではその周辺の用語が整理されている。この調子でいくと「楔状」は「ケツジョウ」、「楔入圧」は「セツニュウアツ」に収束していきそうだ。無論、自分の調査が関係あるかはわからないが。
医学用語は現在も少しずつ変わり続けている。
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[参考文献]
西嶋佑太郎 (2014)「日本語医学用語の読みの多様性と標準化―「楔」字を例に―」漢字文化研究(5) p.7-56