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連載記事

『漢文教室』51号(1960年11月発行)掲載

中国における小説の発生について


   (一)
 長い歴史を持つ中国文学の中で、ふしぎと発生のおくれたジャンルが二つある。戯曲と小説である。前者はいま残る作品の限りでは、唐以前にさかのぼることはできない。そして後者は、ふつう晋の干宝の捜神記がその起原だといわれている。どちらにしてもそう新しい時代のことではないが、何分にも長い中国の歴史のことだから、相対的にはかなりおくれたと言うべきであろう。

 ただしそれは、いま述べたように、現在残っている作品にもとづいての話である。戯曲について言えば、中国演劇の歴史は唐代においてもある程度まで跡づけることができる。ただ脚本が残っていないだけのことであって、記録として定着しなかった芝居の台本(と言うよりも、即興的な要素が多くて脚本の体裁をなしていなかったに違いない。だから今では亡びてしまったのであろう)を考慮に入れるならば、もっと古いところまでさかのぼることも可能なはずである。それは文学がまだ口から口へと語り継がれていた時代の文学史を考えることになる。小説についても同様のことが言えるであろう。
 ところで捜神記の著者干宝は、伝記は明らかでないが、大体東晋の初年(四世紀の初めごろ)に出た有名な歴史家である。伝説によれば、この人は一生の間に二度、ふしぎな体験をした。一度は子供のころ、父の愛していた女中があったのを母が嫉妬して、父の死んだとき、墓の中へいっしょに生き埋めにしてしまった。それから十年あまりたって母も死に、父と合葬しようとして墓を開いたところ、その女中が棺の上に伏していた。手当てをすると生き返り、墓の中の話をしたが、父との愛情生活は生前と少しも変わらなかったという。それからは吉凶を正確に予言するようになり、嫁に出してみると、子供まで生んだ。
 もう一度は干宝の兄が病気になり、息は絶えたが体はいつまでも暖かい。そのうちに生き返って、天地間の鬼神の事を見たが、蘇生してみれば夢からさめたような心地で、死んでいたとは知らなかったと語った。
 干宝はこれらの事件に感じて、捜神記を作ったのだという。たしかにこの書には古今の鬼神怪異の話が記録されているが(ただし捜神記は一度ほろびたので、いま伝わるものは原形のままではない)、それには次のような作者の自序がついている。──歴史が真実を伝えることは、なかなかむつかしいものだ。ともすれば一つの事件にも異説が生じやすい。そこで多くの異説を集め、その中から真実を発見せねばならず、そのためには細かい記録を残すことと、ひろく記録を調べることとが必要になる。この書(捜神記)はできるだけそうした要求に沿いながら、事実を記そうとするものである。中には嘘や誤りも混入しているだろうが、これは昔の人でもまぬがれ得なかったことで、しかたがない。ただ著述の大旨は、「神道の誣(し)いざる」を明らかにするだけの価値があるだろう。
 このような態度を整理するならば、二つの点にしぼることができるであろう。一つは歴史家としての態度である。事実を記録しておくことは、それがどれほど些末な事実であろうとも、史料として役に立つ可能性がある。こまかい事実の裏に歴史的な大事件が伏在したり、歴史上の人物の性格が浮彫りにされたりするようなことが、案外にあるものだ。現に左伝も史記も、そのような事実の描写によって効果をあげているのであった。
 もう一つは神秘の世界に関する語り手としての態度である。「子、怪力乱神を語らず」(論語述而)というが、だからといって人がみな鬼神の話を止めたわけではない。むしろ孔子の態度がわざわざ記録にとどめられるほど、彼の時代においては鬼神を語る風潮が一般的だったと考えるべきであろう。そしてこの風潮は時代が降っても、儒家の教えが国家の支持を得たあとでも、別段あらたまったわけではない。神仙世界への信仰が強く人々の心をとらえたことは、後漢から魏晋へかけての記録の中に、いくらでも発見できる。
 ただし、この二つだけが小説を生んだ動機のすべてであるというわけではない。捜神記に先立つ小説として、いまいくらかでも残っているものに、魏の曹丕の列異伝や、干宝より少し先輩になる晋の張華の博物志などを挙げることができる。また書名のみ伝わるものには、漢書芸文志が記録する小説家類十五種の作品がある。これらの書物が成立したのにはまたそれぞれの動機があったように見えるのであって、干宝の考え方が小説作者のすべてを支配していたわけではないけれども、比重の差はありながらこの二つの態度がどの小説にも共通して見られる基本的なものであったこと、これはまちがいがない。
 そこで二つのうち、さしあたって後者──神秘の世界に関する物語の系譜をたどってみることとしよう。その場合、先ず考えられるのはどの民族の小説にも言われる、神話──叙事詩──小説という系列である。この公式が中国にもあてはめられればことは簡単なのだが、実際はそううまい工合にはゆかない。

   (二)
 周知のように、中国には神話が甚だ乏しいのである。ギリシア・ローマないし日本におけるような体系的な物語は、中国には全く存在しない。だから中国人の書いた中国文学史は、最近では他国の文学史と同様に神話から叙述を始めるものが多くなっているが、それらも神話が後世の文学へと流れたあとを論ずるよりも、なぜ中国の神話が少ししか残っていないのかという問題の方に多くの筆を費している。
 その問題の解明のしかたもまた各人各様であって、簡単に整理することは不可能に近い。ただその中で比較的多くの人が共通して指摘するものを拾うならば、次の三つを挙げることができよう。
 一、神話が歴史化されてしまったこと。つまり神話の中でたしかな事実と認め得るもののみが歴史の中へ組みこまれて生き残り、あとは亡びてしまった。
 二、儒家が神話を排除したこと。さきの「怪力乱神を語らず」がその有力な根拠である。これは意識的かつ強力な、神話に対する攻撃であった。
 三、古代中国民族(特に中原地方において)の生活は苦しく、労働が激しかったため、神話などを生んでいる余裕がなかったこと。
 これらの説明は、それぞれに一面の真理を含んでいるであろう。しかしまた、何か物足らぬ感じをおぼえさせることも事実である。その理由を考えてみると、一と二はどちらも中国の神話がわずかな断片のみを残して消滅してしまったという事実から出発し、その点の解明にのみ主力をそそいでいる。だからその説くところはすべて、おそらく神話の歴史の上では末期に属する現象である。この障害に到達するまでの中国神話がどのようにして生長してきたかという疑問は、ほとんど答えられていない。また三は神話の発生について論じ、中国にはそもそも神話が少なかったのだという結論を導こうとするものであるが、労働が苦しかったことと神話が生まれなかったこととは、必ずしも結びつかない。この説明によれば神話とは、労働の余暇に、その疲れを癒やすものとして考えられているようだが、それならば実は大した問題にならない。神話がその程度のものだとしたら、人間に少しずつ合理的な物の考え方が生まれるにつれて絶えず改作され、容易に歴史へと接近してしまうであろう。

   (三)
 遠い大昔、神話が誰によって、どのようにして語られたかを知る資料は、今では一つもないと言ってよい。だがおそらく神話を語り、聞くことは、そうなまやさしい行為ではなかったに違いないのである。第一にそれは、精神に安らぎとよろこびとを与えるよりも、むしろ畏怖と不安とを呼びおこすものではなかったか。
 このことを裏書きするのは、古い中国の神々の持つ相貌である。たとえば天地のこわれたのを補修したと伝えられる女媧(か)や、その夫・兄などと言われる伏羲(き)、いずれも人首蛇身と考えられていた。また西方に住む西王母という神は、漢武内伝という小説(たぶん六朝時代の作)の中では年のころ三十ばかりの絶世の美女となっているが、それより成立の古い(と言っても制作年代はあまり明瞭でない)山海経においては、姿は人に似ているが豹尾虎歯としるされている。どちらも美と栄光に包まれた古代ギリシアの神々とは、様子が違っているのである。そのギリシアにおいてもまた、オリュムポスの神々が全土を征服するまでは、非人間的な、おそろしげな相貌の神々が君臨していたらしい。この事実から、西王母などは典型的に古代ギリシアの神々と同じ経路をたどった中国の神の例だと説く学者もある(たとえば玄珠=茅盾の神話学ABC)。
 結局のところそれは、これらの神々に対する信仰の没落──少なくとも変貌の過程を示すものであろう。神話を聞こうとするとき、ただ神の威力のおそろしさに畏怖していた時代から、神の世界への好奇心が頭をもたげ出す。これは信仰にとっては、歓迎すべき状態ではなかろう。しかし聞く方がそうならば、語る方もまたその好奇心を満足させる方へと傾くのも自然の勢いである。そしてその、不信と隣りあわせの好奇心が神話を文学へと変貌させ、それよって後世までその生命を保たせる力となった。──ここまでは、何も中国の神話に限ったことではない。

   (四)
 ところで春秋左氏伝には、諸侯の間において神々の話の語られていた事実が、幾つか記録されている。たとえば文公十八年、莒の太子僕が父を殺して魯に奔(はし)ったとき、季文子はこれを追出した。その理由を宣公にたずねられた季文子が太史克に答えさせた中に、帝高陽を始めとする神々の系譜が述べられている。また襄公四年、晋の魏絳が晋侯を諫めた言葉の中には、弓の上手な后羿(げい)が奸臣寒浞(さく)を信用して遂に亡びた物語があるし、鄭の子産は昭公元年に晋侯の病気見舞に行き、晋の叔向からこの病は実沈台駘の祟りだと卜にあらわれたが、晋の史はその名を知らぬと言われ、この神の由来を説明している(左伝にはこのほかにも、子産が神について語った事実を記録する。どうも彼はこの種の話について、格別の知識を持っていたらしい。それが当時の「君子」にとっては必要な教養の一つだったのではないか。孔子もその教養をそなえていたのかもしれぬ。しかし彼はあえて怪力乱神を語らなかった。子産は問われるままに答えた。孔子が子産を「古(いにしえ)の遺愛」と評した理由の一つは、ここにもあったのではなかろうか。──もっとも伝説上の孔子は、たとえば史記孔子世家などを見ると、かなり怪力乱神を語っているのだが)。
 しかし子産たちの話は神々に関するものには違いないが、神話そのものとは考えられない。むしろそれは、神話にとっては末期的な現象ではないか。神々の間に系譜や秩序が考えられたことは、各氏族の神が相互に混合し、それを適当に排列した汎中国的な神の系列が作られたあとを示すものであろう。
 そのとき、さきの左伝の記載中に「史」と呼ばれる人物が登場することは、注目すべきである。一つの系譜にならべられた神々の名前および事蹟は、史官によって記憶せらるべきものであった。そして史官すら知らぬ神とは、すなわちこの系列からはずれたものであって、その神への祭りが絶え、すでに神話の忘却が始まったことを意味するであろう。
 遠い大昔には、神々の怒りや喜びがそのまま人間の運命を決定すると考えられた時代があったに違いない。だから人間が自分の意志や行動を決定するときは、占卜や神おろしの方法によって神託を仰いだ。部分的には、この信仰はずっと後世まで尾を引いている。しかしすべてを神の手にゆだねようとする態度は、時代の降るとともに崩れていった。丘の禱るや久し(論語述而)と宣言した孔子の立場は──もっとも孔子はこの時代における特殊な人物だったに違いないが──すでにそのような傾向の萌芽を示している。
 こうして神話は、少数の「君子」が教養として、または史官が職務として記憶するものとなった。どちらにしても、そこで記憶された神話とは、畏怖や信仰の対象であるよりは知識・教養の性格を持っていたに違いない。ただしそのような「歴史化」が、神話を亡ぼす力としてのみ働いたかどうか。神話を単なる空想の所産と見る限りは、その歴史化・合理化は、空想の芽をつみ取る結果しか生まぬことになろう。だが一方、主として国家権力の介入による神話の歴史化は、それを体系化したまま固定し、後世に伝える効果をも生んだはずである。日本神話の姿を眺めれば、それは容易に理解し得るであろう。

   (五)
 以上はしかし、社会の上層部においての話である。民間ではやはり古代神話の神々が、変貌しながらも生き残っていた。それを支えた直接の存在は、昔からの「巫」であったに違いない。そして巫の手から叙事詩人の手へと移ることが、神話を文学へと展開させるものだったはずであるが、中国ではどうも少し事情が違っていた。
 古代の巫の生態を知る資料は、やはり非常に乏しい。ただここに、屈原の離騒に始まる、楚辞と呼ばれる一群の韻文がある。これは長江流域を中心とする文化の所産なので、中原地帯のそれと一つにして論ずるわけにはゆかないのだが、後世の文学に及ぼした影響の大きさから言っても、決して中原の──詩経系の文学に劣るものではなかった。
 楚辞について多くを語る余裕は、今はない。ただその中の離騒について考えられることの一部を述べてみることとしよう。これは作者屈原が楚王に見捨てられ、放逐されながらも、なお我が身の潔白と祖国への愛情とを歌った作品とされている。後漢の王逸の注などはこの作品の一句一句にその意味を持たせ、牽強附会と思われる説明もつけているのだが、総体には作者の怒りと情熱を十分に汲みとることができる。
 しかし、結論をさきに言ってしまえば、この作品に描かれたのは一つの英雄伝説だったのではないか。作者はまず「帝高陽の苗裔、朕(わ)が皇考を伯庸と曰(い)う」と歌い出し、以下にわが家系とわが身についての名のりをあげる。一人の英雄がここに登場するのである。それから、この英雄の受難が始まる。彼はこの世の俗物どもからその真価を認められないばかりか、逆に迫害される。その結果彼は、自己の正しさを立証しようとして、すでに霊界にある聖天子舜のところへと出かけて行く。
 ここから彼の天上周遊が開始される。彼は日の神である羲和に命令を下したり、風神雷神を駆使したりして、神々の住居である崑崙の県圃などをめぐり歩く。そして河神である宓(ふく)妃に求婚しようとするが、彼女が嬌慢なために捨て去り、別の神女を求めて行く。そうした周遊の末、天上からふとわが故郷を臨んだとき、僕夫もわが馬も悲しみに打たれ、さきへ進むことができなくなったというところで終るのである。
 人間の中で選ばれた、最も神に近い存在である英雄は、そのゆえに受難を経なければならぬ。その一方、彼はまた直接に神と語ることができる。神に自分の正しさを訴え、その保護を求めることと、神の託宣を聴くことと、そして神女の夫となることとは、英雄にとっては一貫した行為として矛盾なく成立し得るであろう。おそらくこのような発想の底には、一人の英雄の天上をめぐり歩く話が同様の形の韻文として歌われていたという前提があったのではないか。むろんそれはもっと素朴な、単調なものだったに違いない。屈原はそれに華麗な修辞と構成を与えつつ、自身の歎きを訴える文学へと転換させたのではなかったか。
 ただその歎きを訴えるという動機のゆえに、離騒は叙事詩というよりも、いちじるしく抒情詩的な傾向を持つ。同じ戦国のころ、同じような立場に立たされた韓の韓非という人は、孤憤と題する論文の形で自己の主張を述べた。屈原は同じことを叙事詩的な方法によって実行したのである。この伝統は、そのままでは小説へとつながりにくい。

   (六)
 ここでわれわれは、もう一つの作品を考えあわせることができる。それは屈原の弟子と言われる宋玉の高唐賦である。楚王に扈従して高唐の館に遊んだ宋玉が、王の求めに応じてその昔ここを訪れた楚の先王の夢に巫山の神女があらわれ、一夜の契りを結んだ話を物語るという、いわゆる巫山雲雨の故事が綴られているのであって、つまりこの場合の宋玉は、左伝に登場して神々の話を語った君子たちと同じ位置にある。ただ違うのは、宋玉の物語は何の実用性をもともなわない。全く楚王の娯楽のために語られたとしか考えられないのである。
 これは必ずしも宋玉のような「宮庭詩人」に限ったことではない。戦国の諸子にも同様の性格が存在したであろう。孟子や韓非子に記録されている民間の説話とおぼしきもの、たとえば宋人が苗を「助長」した話(孟子公孫丑上)や鄭人が市場へ履を買いに行った話(韓非子外儲説左上)などは、そのあとを物語る。彼らはそれらの話を、自分の理論を立証するための資料として物語った。しかし説話の方から言うならば、民間の話はこのようにして運搬され、諸侯の宮廷へと吸いあげられて、その結果記録の形となって今日まで伝えられる機会を得たのである。
 神話の記憶者である史官の立場も、時とともにそれと似たものとなったのではないか。史官の語る神話を単なる娯楽の目的をもって聞こうとする君主は、たぶん少なくなかったに違いない。だから後世、漢の司馬遷は任少卿に与えた書翰の中で、朝廷におけるわが父司馬談は太史でありながら卜祝の輩にすぎず、倡優同然に扱われたと憤慨している。これに反撥して司馬遷の書いた史記が神話的叙述をつとめて排除しようとしたのは、当然のなりゆきであったと言えよう。
 ところで高唐賦における巫山雲雨の物語は、実はこの作品の中心をなすものではなかった。中心はむしろ作者がこの物語ののち、高唐の模様を華麗な筆致によって描写する部分にある。つまり作者は高唐の描写へのイントロダクションとしてこの神話を使っているのであって、神話そのものをここに叙述しようとしたのではない。
 高唐賦以外にも、賦という文学には神々の名前の記されることが少なくない。しかしそこでも神話の叙述は当面の目標とはなっていないから、それによってわれわれが一つの筋を持った神話を知ることは、ほとんど不可能である。神々の名前やその行為は、言わば一つの典故として、すなわち華麗を尊ぶ賦の文学に一段と幻想的なふくらみを持たせるものとして、使用されているにすぎない。ここに神々を中心とする叙事文学を期待することは、無理な注文と言わなければならなかった。
 だから中国の神話が断片のみを残して早く亡びたために大きな叙事詩として結晶する機会を持たなかったという、中国神話に関してこれまでにしばしば行われている説明は、順序を逆にして考えるべきものかもしれない。すなわち中国の神話はむしろ、大きな叙事詩に統合される機会を持たなかったために、断片のままで多くは忘却されてしまったのではないか。
 ただしこれも、宮廷を中心としての話である。今日伝わる記録から全く排除されてしまった民間においては、事情はまた別であったかもしれぬ。神々へのおそれと尊敬が根強く残っていた民衆の間へ(そして民間ばかりのことではなかったであろう。史記魏其武安侯列伝によれば、武安侯田蚡が病気にかかったとき、「鬼を視る巫」に見させたところ、田蚡の殺した魏其侯竇嬰と将軍灌夫との亡霊が枕がみに立っていたと記されている)、秦漢に栄えた神仙説や張道陵の五斗米道が伸びていった。古代神話がそこで新しい宗教的意味を与えられたことは、ほとんど確実であろう。それはまた曹丕や干宝の所属する上流階級においても、受け入れられるものであった。魏晋南北朝を通じて、神仙への信仰・不老長生へのあこがれは、貴族階級の間に強く伝承される。その時代の初頭に立って「神道の誣いざる」を明らかにしようとした捜神記は、だから複雑に変貌した古代神話の尾をとらえたものであった。
 その辺の事情をもっと明らかにするためには、もう一つ、迷信を排除しようとした後漢の王充などの合理主義的な態度との関係をも考えあわさなければならぬ。しかしこの点については、また稿をあらためて語りたい。

(c)Maeno Noriko, 2016

当連載について

『漢文教室』は、1952(昭和27)年5月に創刊されました。
 漢文教育振興の気運が高まっていた当時、小社では諸橋轍次先生を編集顧問に、中西清・鎌田正・大木春基・鈴木修次・小林信明・尾関富太郎・牛島徳次の先生方を編集委員とした検定教科書『高等漢文』を発行、雑誌『漢文教室』もこの機に創刊されました。
 漢文教育のありかたについて、また発行教科書について、「理論と実際の両面から活発なる研究を試み、漢文教育の真のありかたを研究する」(諸橋轍次先生「発刊の辞」)ことを目的としてスタートしたこの雑誌は、以来、多くの先生方のご指導・ご支援により、漢文教育界の動向及び最新の教材研究、授業実践等を、全国の先生方にお届けしております。
 当「漢字文化資料館」の「『漢文教室』クラシックス」では、現代の読者の皆様には目に触れる機会の少ない『漢文教室』の古い号から、掲載論考を再掲してご紹介します。

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 *論考内で使用されている語や言及されている事実関係については、現在では用いられない表現、現在とは異なる事実等がありますが、各論考の執筆時期をご考慮の上、ご覧ください。
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