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◇PartⅣ 金文とは何か

   ―古代中国のモノづくりと文字文化の出会い―

 

高久由美

 

 最古の漢字として出現した甲骨文字に引き続いて、古代中国を代表するもう一つの文字文化である金文に話を移そう。甲骨文が、主に殷代を代表する文字文化であったのに対し、金文が使用された時代は、殷代から漢代まで長期間にわたって続いた。文字文化として開化するのは殷から周へ王朝が交代してからのことで、漢字は金文という形態とともに殷から周へと引き継がれ発展し、西周時代にその最盛期を迎えた。

 

〈金文とは〉

 そもそも金文とは、青銅器という立体的な造形物に鋳込まれたり刻されたりした銘文あるいは文字そのものを称する。中国における青銅器の製作は殷より前の二里頭期(紀元前19世紀~紀元前16世紀頃)に広がったとされ、鋳型の製作から青銅器の鋳成[ちゅうせい]まで、実に複雑な工程を経て完成品が出来上がる。初期のものは無銘で、銘文のある青銅器が作られるようになるのは、殷代後期からのことである。金文の多くは器の内壁や内底に鋳込まれた凹状の陰文で、銘文を鋳込む技法については、専門家の間で様々な説がある。なめした動物の皮に文字を彫って粘土に押し当てて凸状に盛り上げる、極細の筆を使って表面が凸状になるまで泥で文字を塗り重ねるなど、器の製作とは別に銘文の鋳型を作る方法が想定されるが、いずれの場合も青銅器を鋳造するタイミングで凸状の銘文部分の鋳型に鋳銅[ちゅうどう]を一気呵成に流し込まねばならない。金文は古代中国におけるモノづくりの高度な技術と漢字との出会いであり、比類のない文字文化の形態として、古くから人々を魅了し続けてきた。
 殷代後期、青銅器は亀甲獣骨と並行して文字の記録媒体として使用されていた。甲骨文の字体は、(王)、(父)、(年)のように亀甲獣骨の表面に鋭利な刀で線状に刻したものだったが、金文は筆で書かれた漢字をもとに青銅器に鋳込んだため、筆写された文字の姿を(王)、(父)、(年)のように正確に写し取って、当時の人々の筆運びを実にリアルに再現している。

〈青銅器の出現と金石学の形成〉

 青銅器は彝器[いき]とも称され、古くから文献にも記されている。「大は小を伐ち、その得る所より取りて以て彝器を作る。その功烈を銘じ以て子孫に示し、明徳を照らし礼無きを懲らしむるなり〈大国が小国を伐ったときは、取った武器などから青銅器を作り、武功を銘刻して子孫に見せ、すぐれた徳を明らかにして無礼をいましめた〉」(『春秋左氏伝』襄公19年)、「諸侯の封ぜらるるや、皆明器を王室より受け、以てその社稷[しゃしょく]を鎭[ちん]撫[ぶ]す。故に能く王に彝器を薦[すす]む〈諸侯が封ぜられたとき、みな王室から明徳の器を与えられそれぞれの社稷の鎮めとしたので、自らも青銅器を作って王に捧げることができた〉」(『春秋左氏伝』昭公15年)など、軍功や遠征などの手柄に対する褒賞が授与され、それに対して特別な祭器である青銅器が製作され、そこに手柄や褒美の品を銘文として記して、祖先を祭祀する儀礼に用いられていたことが文献によっても裏付けられる。銘文のある青銅器を作ることは、君臣間のつながりの証しとも言えることであった。
 また、後漢に成立した中国最古の字書『説文解字』には、「郡国もまた、往往にして山川に於いて鼎彝を得たり。その銘は即ち、前代の古文にして、皆、おのずから相似たり」とあり、古代の文字で銘が記された青銅器がしばしば各地で地中から出土したと記されていて、銘文を帯びた青銅器が当時から人々に特別視された遺物であったことがうかがえる。
 このように青銅器に関する数多くの記述が、古くから文献に伝えられていることと相俟って、金文と青銅器を対象とした研究も千年以上続く長い伝統を有している。呂大臨(1046?-1092?)によって刊行された『考古図』(1092)がその先駆けで、青銅器を分類・整理して器形図や銘文を収めた体系的な研究書であった。金文研究は宋代以降に盛行し、金文や石刻[せっこく]を扱うこうしたジャンルの学問が金石学と呼ばれるようになった。十九世紀末に甲骨文が発見されてから、わずかな時間で一気に解読が進んだのも、金石学という学問的バックグラウンドが大いに下支えとなっていたに相違ない。

〈金文で記録された事柄〉

 甲骨文が占いの言葉を記録したものだったのに対して、金文は、主として、褒美を授かった臣下が主君を称揚するために、褒美を受けた経緯を記録したものだった。実際の銘文は次のような類型がある。初期の金文の特徴は、「図象銘」と呼ばれる形式で、祭祀対象の祖先(図1「婦好[第22代殷王武丁の妃]」)や、族徽と呼ばれる氏族集団の標章のような銘(図2「亞」、「莫」、「犬」の組み合わせ)を持つ青銅器が殷代後期[殷墟期]に多く製作されたが、この時期の漢字文化の中心であった甲骨文のように、文意を形成するには至っていなかった。甲骨文の第五期(第29代殷王帝乙と第30代殷王帝辛〔=紂王〕の時代)に相当する殷代末期に至って、まとまった一定量の言葉が文章として記される「成文銘」が出現するようになり、漢字文化の中心は甲骨文から金文へと移っていく(図3 小臣[しょうしん]艅[よ]という人物が、殷の紂王が夷方を征伐した際に褒美を賜ったことを記す)。西周時代になると、金文の形式や内容が次第に確立していき、記録される内容も、君主からから臣下の手柄に対する褒美のやり取り、土地をめぐる係争、祖先の系譜など多岐にわたり、また、毛公鼎のような五百字近い長い銘文を持つ高さ約54cm、口径約48cmの青銅器が作られるなど、西周時代に全盛期をむかえた。青銅器の中には、自家の宗廟に供える祭器として使い、代々の伝家の宝とするよう子孫に言い伝えられ、文末にしばしば「其万年永宝用」(それ万年永く宝として用いよ)、「其子々孫々永宝用」(それ子々孫々永く宝として用いよという一文がその伝言として記されるものも多い(図4)。

     

図1         図2         図3

 

 

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