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連載記事

『漢文教室』16号(1955年1月発行)掲載

西域の音楽と唐の辺塞詩


   (一)
「君聞かずや 胡笳の声の最も悲しきを。紫髯緑眼の胡人吹く。これを吹きて一曲なほいまだ了(をは)らざるに、愁殺す楼蘭征戍の児。」(岑参・胡笳歌・巻二「塞外」)岑参は河隴に使いする顔真卿を送るに、月に向って胡人が吹くという胡笳の怨みをもってした。王昌齢は、西域の風土性がもつきびしさを
  烽火城西百尺楼  烽火城西百尺楼
  黄昏独坐海風秋  黄昏独坐す海風の秋
  更吹羌笛関山月  更に吹く羌笛関山の月
  無那金閨万里愁  那(いかん)ともする無し金閨万里の愁  (従軍行)
と、羌笛の怨みに寄せた。王翰は、「葡萄の美酒 夜光の杯、飲まんと欲して琵琶馬上に催す。云云」(涼州詞・巻一「愁思」)と、琵琶の哀調に征途のわびしさをうたった。唐人が西域の情をのべる詩には、思いを西域の音楽への連想にはせるものが多い。王之渙はうたう、「羌笛何ぞ須ひん楊柳を怨むを、春光度(わた)らず玉門関。」(涼州詞・巻二「塞外」)李頎はいう、「白日山に登つて烽火を望み、昏黄馬に飲(みづか)ひて 交河に傍(そ)ふ。行人の刁斗風沙暗く、公主の琵琶幽怨多し。」(古従軍行・巻二「塞外」)と。
 こころみに唐詩選中から、目にうつったままを、さらに幾つかとりあげてみよう。
  酒泉太守能剣舞  酒泉の太守能く剣舞す
  高堂置酒夜撃鼓  高堂置酒して夜鼓を撃つ
  胡笳一曲断人腸  胡笳の一曲人の腸を断つ
  坐客相看涙如雨  坐客相看て涙雨の如し  (岑参・酒泉太守席上酔後作)

  雪浄胡天牧馬還  雪浄くして胡天馬を牧して還る
  月明羌笛戊楼間  月は明かなり羌笛戍楼間
  借問梅花何処落  借問す梅花は何れの処より落つる
  風吹一夜満関山  風吹いて一夜関山に満つ  (高適・塞上聞吹笛)

  寒塞無因見落梅  寒塞落梅を見るに因(よし)無し
  胡人吹入笛声来  胡人吹いて笛声に入れ来る
  労労亭上春応度  労労亭上春応に度るべし
  夜夜城南戦未回  夜夜城南に戦ひて未だ回らず  (釈皓然・塞下曲)

  天山雪後海風寒  天山雪後海風寒し
  横笛偏吹行路難  横笛偏へに吹く行路難
  磧裏征人三十万  磧裏の征人三十万
  一時回首月中看  一時に首を回(めぐ)らして月中に看る  (李益・従軍北征)

  一曲涼州金石清  一曲の涼州金石清し
  辺風蕭颯動江城  辺風蕭颯として江城を動かす
  坐中有老沙場客  坐中沙場に老いたる客有り
  横笛休吹塞上声  横笛吹くことを休(や)めよ塞上の声  (張喬・宴辺将)
 以上掲げた詩は、いずれも,荒涼索漠とした西域の風趣や、西域行旅のつらさをのべるに当って、思いを胡人たちによって吹きすさばれるという楽の調べにはせ、その楽の調べへの連想によって、いよいよ西域という土地環境が持つきびしさを、一きわ強く浮きあがらせる、という点において、共通した傾向をもっている。唐人の詩に西域をうたうものは甚だ多く、そしてその多くのものは、添える景物として西域の音楽のことをもち出し、愁情をかきたてるよすがとする。それほど唐人に関心をもたれた西域の音楽というのは、一体どんな音楽だったのか、しばらく目を転じて、西域の音楽についておしゃべりすることを、お許し願いたい。

   (二)
 西域の音楽が中国に紹介されたのは、実はだいぶ昔のことである。ふつうには、漢の武帝に派遣されてBC126年に西域(当時は大部分が匈奴)から帰国した探検旅行家張騫(ちょうけん)(張博望)が、西域の曲である摩訶兜勒というのを中国に伝えたのが最初であるといわれている。この曲は双角をもって吹く曲で、後になって横吹(よこぶえ)を用いるようになったと晋書の楽志に説明される。双角とは、つがいにして用いることから、そういうらしい。角とは、形が角に似ていることからつけた名で、軍中に使う「ほら」の一種であった。別にまた長鳴角ともいった。そのひびきが長く尾を引くことからそういう。後には、そのひびきが余りにも悲痛なので、中鳴にして、中鳴角といったと、太平御覧にいう。が、張騫が伝えた曲は、果してこの「ほら」に似た角のみを用いたものかどうかは疑問である。この角だけでは、十分にメロディを奏でることはできまい。その疑問に答えるかのごとく、晋書の楽志は、双角は元来、笳に応ずる楽器であったといい、暗に笳と角が合奏されたことを示す。が、笳も、本来は蘆(あし)の葉をまいた笛であるから、その笳と角と合奏させても、やはりメロディを奏するには無理を伴う。しかし笳は、時には篳篥(ひちりき)のこともいう。「ひちりき」は、唐の杜佑の「通典」に、羌胡の人がこれを吹いて、中国の馬を驚かしたとあるように、西羌や北狄に使用されていて、中国にはなかった楽器で、孔をもつ縦笛の上に、蘆で作った舌がしつらえてあり、笳管ともいっている。従って、張騫が伝えた西域曲というのは、まず今日の「ひちりき」に似た笛に、角を合わせて吹く曲であったのであろう。摩訶兜勒は、マハトカラと読むのではないかというのは、東洋音楽の研究家である岸辺成雄氏の説である。してみると、その曲調は、印度系の音楽であったということになる。
 張騫の西域楽が中国に紹介される以前に、別に北狄系の音楽が、既に中国に伝わっていた。それは、漢書の著者である班固の祖先、班壱が、秦末に朔北の地に逃れて牧蓄を経営していたが、その班壱が伝えた曲で、このほうは、笳と蕭(しょう)とで合奏させる曲であったという。蕭は中国においても既に昔からあった楽器である。漢代楽府の研究家孔徳氏は、この北狄曲の中にも、既に西域曲的要素がとりこまれていたのではないかといっているが、その見解に従えば、張騫よりさらに早く、西域の音楽が北狄の音楽にとけこんで入っていたことになる。漢の高祖のころ、悲調に富んだ「出塞」とか「入塞」とかいう曲が宮中で流行して、宮女たちが好んで歌い、一時その曲を歌う声は宮廷に満ち溢れ、天にも通ずるほどであったというはなしを、「西京雑記」という書物は記している。「西京雑記」の記事が、そのまま信頼できるかどうかは、別に問題があるが、この「出塞」とか「入塞」とかいうのは、先の張騫が伝えた西域曲と同類のものであるとされているので、西域曲が入ったのは、特に張騫に始まると考えなくてもよさそうである。思うに漢初既に、北狄の音楽として、西域の楽が入ってきていたものであろう。しかし張騫が伝えた曲は、今までの北狄楽化された西域楽とはちがって、西域から直輸入したものであるだけに、やはり当時の耳目を驚かすに足りるものがあったと思われる。
 さて西域楽というのは、西域から伝来された音楽ということで、別に西域にだけに独特の音楽があって、それをいうわけではない。西域において行われていた音楽は、当時西域は印度にも通じ、さらにペルシャ文化圏にも通じていたので、音楽の系統としては、印欧系の音楽の流れにあったものと考えられる。この西域から中国に伝えられた音楽は、中国古来の音楽とはだいぶ趣の違ったものであった。まず第一に楽器が違う、テムポが違う、そしてなかんづくそのメロディにおいて、従前の単調な中国の音楽においては見られなかった哀感があり、切実に人間の感情に訴えかけるものがあった。秦以後、特に漢初において、中原においてその哀感、悲調の点で好んで歌われていた楚調の音楽も、西域伝来の音楽の前には、とうてい比肩を許さぬほど、たいくつなものであった。だから、こうした音楽が一たん中国に伝わると、燎原の火のようにどんどん流行伝播して、庶民は今までの中原の音楽──識者たちはそれを雅なるものであるとする──を棄てゝ、どんどん新しいメロディ──識者はそれを俗なものであるとする──を口ずさむようになっていった。すなわち世の保守的な為政者、インテリたちが嘆くように、世の音楽は急激に俗へ俗へと走ったのであった。この俗なものを、詩経を評した孔子のことばにならって、鄭声とも淫声ともいって、識者はけなした。
 漢の武帝の時、政府に音楽を司る役所楽府(がふ)を設けて(ほぼBC110ごろ)、それまで久しく絶えていた国家的祭祀の場合に歌うべき歌(郊祀歌)を制定させ、かたわら民間に伝わる民謡を採集し、手を加えて宮廷に保存し、亡びゆくものに雅の位置を与えて貴族楽として存続させようとしたが、そのときに手を加え整理をする役にあった(協律官)李延年という人は、今の河北省のあたりの芸人の家に生れた、およそ役人になるには不向きな人、妹李夫人が武帝の寵を得たことから武帝にかわいがられ、高官についたのであるが、それだけに庶民の楽、すなわち俗楽にはくわしく、とくに西域楽に通じており、西域の調べをとり入れて郊祀歌を作り、楽府採集の民謡に手を加えたのであった。従って漢の武帝以後の雅楽や、楽府保存の民謡は、もはや昔の伝統的な雅楽や民謡とは、必ずしも同一でない。李延年はまた、笛を主楽器とする西域調の歌を新しく作り、これが世にいう横吹曲の元祖になった。横笛曲とは、横吹楽器、すなわち横笛に従う曲の意で、西域のメロディにならうものである。
 元来笛は、中国に元からあった楽器ではなく、西域から伝わるものである。後漢の応劭の「風俗通」という本に、笛は武帝の時、丘仲という人が作ったものであるとのべ、やはり後漢の馬融(七九─一六六)に「長笛賦」(文選巻一八)という一文があるが、それには丘仲のことばであるとして、「近世の双笛は、羌から起る。」ということをいう。外来のものであっても、なんとかして中国の古い聖代にあったものだという説明にしたいのが、当時の有識者のくせであったから、さながら昔から中国にも笛があったかのような口ぶりであるが、武帝の時に作られたという風俗通の言は、まさしく西域楽との関連を物語る。当時伝えられた笛には五孔のもの(後に羌笛という)、七孔のもの(横吹はこれであったか?)の横笛と、現今の「ひちりき」に類する縦笛とがあったようで、これが前漢に伝わった西域楽の特色ある、しかも主要な楽器であったらしい。李延年はこの笛を用いる西域調の楽廿八を歌ったが、魏晋のころまでそのうち「隴頭」・「出関」・「入塞」・「出塞」・「折楊柳」・「望行人」など十曲が残って用いられ、さらに魏晋のころ新たに「関山月」・「梅花落」などの八曲が作られた。先に掲げた詩の中、王昌齢が「関山月」をいい、王之渙が「楊柳を怨む」といい、高適の「梅花は何れの処より落つる」、釈皓然の「寒塞落梅を見るによしなし、胡人吹いて笛声に入れ来る。」というのは、皆李延年から伝わるという西域調の曲「関山月」・「折楊柳」・「梅花落」を意味している。ただし、これらのメロディは、「折楊柳」を除いては、実際には魏晋の末ごろまでに亡んでしまっており、従っていずれも、単に古くから伝わる有名な曲名だけをあげたにすぎない。「折楊柳」は古曲は亡んだが、梁のときに又北狄から新曲が入ってきており、この方はわりあいに残っていたようで、唐の時にも事実歌われていたような形迹もある。
 たとえば李白の詩に、
  誰家玉笛暗飛声  誰が家の玉笛ぞ暗に声を飛ばす
  散入春風満洛城  散じて春風に入りて洛城に満つ
  此夜曲中聞折柳  此の夜曲中に折柳を聞く
  何人不起故園情  何人か故園の情を起さざる  (春夜洛城聞笛)
とあるのは、「折楊柳」曲を実際に耳にしたことを思わせる。梁の時の北狄から伝わった新曲「折楊柳」が、李延年が作ったという西域調の「折楊柳」と同一のものであったかどうかは不明である。
 流行歌の変転はめまぐるしい。漢初に中原に入ってきた西域楽は、前漢から後漢にかけて盛にうたわれ、一部は大体魏晋のころまで伝わったようであるが、楽器、曲名を残して漸時消えてゆき、後に残ったものは雅楽の中にとり入れられ、雅楽として伝わったもののみであった。しかしそれも、ほぼ六朝の末頃までには消えている。以上が西域楽が中国に流伝された第一次で、第一次の西域楽は、笳や笛(羌笛・横笛)による曲として認識づけられた。

   (三)
 第二次の西域楽の流伝は、仏教音楽、ならびに西域諸国の舞楽である。仏教楽の流伝は、隋書や旧唐書の音楽志の記録に従えば、四世紀の中ごろ、東晋の時代に、前涼の張重華が涼州に拠っていたときに、仏教徒が仏教音楽や舞楽を伝えたのに始まり、それ以後印度の王子や坊さんがしばしば来遊して、そのつどその楽を伝えるようになったのであるというが、実際は、後漢の末ごろから、仏教の伝来と併行して、時々に朝廷にもたらされており、隋書や旧唐書にいうのは、そのころから、中国に盛んに流入伝播するようになったことをいうのであると解される。西域諸国の舞楽のはしりは、四世紀の終りに、今の新疆省クチャ地方から流伝された亀茲国の音楽である。それから五世紀の中ごろになって、中央アジアのボハラ地方から安国楽が、新疆省カシュガル方面から疎勒楽が流伝され、六世紀の半ばごろになって新疆省トルファン方面から高昌楽が、中央アジアのサマルカンド方面から康国楽が入ってきている。これらは何れも舞を伴った組曲であり、オーケストラで、非常に規模の大きいものであり、隋・唐になって、何れも朝廷の公の席に奏すべき音楽としてとりあげられ、政府の庇護を受けている。その中で最も規模壮大であったのは、亀茲楽であった。亀茲楽については、「亀茲楽考」(諸橋博士古稀祝賀記念論文集)において詳細にのべたので、ここでは省略する。この亀茲楽を始めとする安国・疎勒・高昌・康国の西域五楽も、先にのべた仏教音楽と全く無縁なものではない。何れも若干仏教音楽の影響が加わっており、その上に、それぞれのお国ぶりを発揮したものであるようだ。第一次の西域楽が民謡に近い線で入ってきたのに比べて、第二次の西域楽の攻勢はまことに絢爛豪華、直接に公儀に入りこんで、それだけに民衆の生活とは遊離していた。その片鱗は、そうした西域楽の影響を受けて作られた唐の宮廷楽がわが国に伝わり、今日なお雅楽の調べの中にわずかながら余喘を保っているので、わが国の雅楽を考えることによって、当時の西域楽のおゝよその見当がつく。
 この第二次流伝の西域楽に伴って、琵琶が中国に流布されたことは、特筆しなければならない。琵琶は一に批把とも書かれ、すでに後漢のころには、外国からの献納品の一として、献上されていたらしいが、限られた貴族の宝物であって、とうてい庶民生活には縁がなかった。後漢の応劭の「風俗通」に、「謹しんで按ずるに、これ(批把)は近世の楽家の作る所であるが、誰の作かは分らない。手で批把するから、それによって名をつけた。」とあり、劉煕の「釈名」に、「琵琶はもと、胡中馬上で皷(なら)す所のものだ。手を推して前めるものを批といい、手を引いて却けるのを把という。それから名にした。」とある。笛の場合と同様、西域からの貢物であったことはいわず、中国で作られたような口ぶりだが、琵琶についての記録は、恐らくこれが最初かと思う。琵琶はもと中央アジアにおいて発生したものであるらしく、琵琶(pipa)というなまえは、ピンパンとはじく絃の音をそのまゝなまえにしたものらしいことが、応劭の説明や、劉煕の説明からうかがえる。チベットでは近世まで、ピパン(pipan)とかピバン(piban)とかいわれていたそうで、「ビワ」というに至ったのは、わが平安朝期に訛って伝えられたためであるという。(田辺尚雄氏の説)
 西晋の音楽に精暁していた文人傳玄に、「琵琶賦」という一文があった。その文は今日逸して伝わらないが、太平御覧引くところの「琵琶賦」の序によると、漢が烏孫に公主を遣わした際、道中のわびしさをなぐさめるために、琵琶を弾いたと古老から聞いた、ということが述べられてあり、やはり西晋の文人石崇の「王昭君辞」(文選巻廿七)という、王昭君のことを読んだ楽府体の詩の序に、むかし公主が烏孫に嫁ぐとき、琵琶を馬上に弾かせて、道中の思いを慰さめた、王昭君を送るときも亦きっとそうだったであろう、といっていることなどを材料にして、後世の中国人は、琵琶がすでにそのころから行われていたのだ、ということにしているが、烏孫公主の場合は、烏孫から結納品として琵琶が献上されたかもしれないと考えられるから、或いは事実琵琶が奏でられたかもしれないとして、王昭君の場合は、たとえ道中弾奏されたにしても、それは琵琶に似て琵琶にあらざる阮咸であったろう、という考証が今日では道理にあった考えとして認められている。阮咸とは、晋の逸人、竹林の七賢の一人であった阮咸が作ったものであるということに晋書の楽志などでは説明されている。楽器名阮咸は、当然人名阮咸(この人は非常に音感に秀でていた人で、当時古い中国の音律を知っていた唯一の人であった。)とは無関係ではないであろうが、久保田米遷というもの好きな人が、明治十一年に考証をして、中国には昔から阮咸と同じ楽器があった、阮咸が作ったというのは、その古い形の楽器に手を加え、改良したので、それから阮咸の名にちなんで阮咸というようになり、阮咸以前の古い楽器は、今日の月琴に発展したのだ、といっている。信ずべき説に近い。要するところ、前漢時代の琵琶というのは、阮咸の前身楽器を指したものか、或いはごく限られた貴族の家の珍宝として用いられていたものをいうのであって、それが一般に弾奏されていたとは考えられない。が、事実は事実として、一般に後世には、伝説の方が信ぜられ、琵琶は公主と密接な関係をもったものであるとし、又西域に旅をするときには、馬上で琵琶を奏でるということが一種の常識になっていた。かくして李頎は、古従軍行に「行人の刁斗風沙暗く、公主の琵琶幽怨多し。」とうたい、王翰は「葡萄の美酒 夜光の杯、飲まんと欲して琵琶馬上に催す。」とうたう。ちなみに王翰の詩は、琵琶を馬上で引いて出陣をうながす意だろうと推測を下すむきもあるが、琵琶の常識において考えるかぎり、琵琶は軍中の合図とは関係なく、旅情を慰さめるためのものであるべきで、従ってこの詩も、単に軍行の慰めとしてひいたものと解釈しなければならない。烏孫公主、王昭君のはなしは、巻二の教科書「塞外」(王昭君は附録)を参照されたい。
 すこしおしゃべりが横道にそれた。再び本論にもどることにする。さて、中央アジアで発生した琵琶は、その後エジプトに伝わり、エジプトからアラビヤ、ペルシャに伝播して盛んに行われ、六世紀に入って、マホメット文化の中心がボハラやサマルカンドに移るにともない、ふたたび中央アジアに入って、隆盛をきわめたらしい。六世紀の中ごろには、その方面の琵琶の名手が、しきりに中国に入ってきている。その中で高名なのは、曹国(カプタナ。カシュガルよりさらに西、カスピ海とカシュガルとの中間あたりにあった国)の人曹妙達であった。彼は北斉の文宣帝(五五〇─五五八)に重んぜられ、北斉の後主(五六六─五七六)のころには、安国(ボハラ)出身者である安末弱、安馬駒という琵琶ひきと共に、王に封ぜられるという勢力の伸展ぶり、そして琵琶による新声曲を作り、多いに流行させている。隋の煬帝のころ(六〇五─六一八)には亀茲国(クチャ)の楽人白明達がやはり重用され、数多の琵琶曲による新声を作って、世に流した。白明達の作には、「万歳楽」・「闘百草」・「汎竜舟」・「春鶯囀」などといった著名なものがあり、それらのあるものは後に詞(詩余)から、さらには曲の調べとしても利用され、またわが国の雅楽にも一部伝わって、若干のおもかげを残している。また、北周の武帝(五六一─五七七)のころ、亀茲の人蘇祗婆が伝えた琵琶の演奏は、七音階法によるもので、大いに時人を驚かせた。それまでの中国ではほとんど五音階法による音楽が行われ、七音階法による音楽はなかったらしく、(俗楽には、古くから七音階による曲が行われていたらしい形跡があるが、雅楽の世界にはなく、少くも当時雅なるものと考えられていたものや、宮廷で歌われていた音楽は、五音階法に従っていたらしい。)後になって、隋の開皇年間(五八一─六〇〇)、楽官鄭訳は、この蘇祗婆が伝えた琵琶奏法に暗示を得て、新しい調律論、七声十二律八十四調の理論を案出し、これまで久しく混乱していた中国音楽の基礎を確立した。第二次の西域楽は、中国に琵琶を伝えるとともに、西洋音楽的手法による七音階奏法をもたらし、中国の音楽に近代の風を吹き入れたのである。
 琵琶の流布は、七世紀に入っていよいよ盛んになり、それ以後中国は、琵琶曲全盛時代を現出する。唐の太宗、高宗、なかんづく玄宗は、すこぶるこの琵琶曲を好まれ、自ら演奏もされると共に、また楽人を親しく養成されたものである。こうしたことの詳細は、いずれ機会を改め、「長恨歌」との関連において、又いろいろ述べたいと思う。玄宗は、かつての漢の武帝のごとく、地方に伝わる曲の採集にも興味を持たれ、部将たちにいいつけて、辺鄙な地方において得た珍らしい音楽を献上させた。開元六年(七一八)に西涼の都督郭知運が献上した涼州曲などは、その一例である。唐詩の詩題に「涼州詞」「涼州曲」をいうものは少くない。それらの中にはこの玄宗の時の涼州曲にあやかって、名前をかりたものがあったであろう。唐代において歌われた詩は、絶句で、たいていはそれを琵琶にあわせて、句をくりかえしながら歌った。世にいう「陽関三畳」もそうして歌われたものである。琵琶は後に、それを伴奏楽器とする語りもの文学に用いられるようになり、これを弾詞といった。そして弾詞はやがて戯曲へと発展してゆく。中国の文芸史上、琵琶のなげかけた影響は大きい。
 (なお参考までに一言すると、冒頭に掲げた李益の詩に、横笛で「行路難」を吹くとあるが、「行路難」という曲は、由来不明なるもの、やはり五世紀の始めごろ、西域楽の影響下において作られた曲のようである。今日残っている「行路難」を以て題する詩は、宋の鮑照の作をもって最初とする。)

   (四)
 唐人が西域のことを詩材にとりあげるのは、唐のころの、一口に辺塞詩人といわれる人たち、すなわち王翰、王之渙、王昌齢や、高適、岑参といった人たちの活動になろう、一種の流行であったようだ。その流行のさきがけをしたこれらの人たちの文学的功績は、もとより否定できない。(漢文教室第四号「盛唐の辺塞詩人」参照)。しかしながら、中国に伝来された西域音楽の展開の歴史から、再び眼を先に掲げた唐詩に向けてみると、そこに扱われている西域楽の常識が、唐代にありながら、余りにも古いものに基準を置いていることに驚かされる。なるほど西域楽に、胡笳、羌笛、横笛、琵琶はつきものであるから、それらを詩材にとりあげるのは当然であろう。そして事実、西域もしくはその近くに出かけたものの多数は、そこで歌われていた哀調こもった胡笳の響やら、羌笛・琵琶の音を耳にして、一きわ異国情緒にかられたであろう。それはちょうどアメリカに出かけた旅行人が、やはりまずニューヨークのビル街を見て、改めてアメリカの富の偉大さに驚きの眼を見はるのと同様の心理でもある。しかしながら、そこで奏でられた音楽そのものについては、必ずしも十分には注視されていない。耳にした異国の響は、直ちに古くからその名を聞いていた「関山月」であるとか、「梅花落」であるとかいった、既成の概念に結びつけられ、すぐにそれが悲壮であるとか、響亮であるとかいった常識的説明におきかえられている。そこに働いているものは、一つの既成概念であり、観念である。中には全く西域に行ってもみずに、空想でこしらえあげた作品もあったであろう。人或いは、これも亦中国人の尚古癖の然らしめるところであると説明するかもしれない。それも一理はある。しかし私は、これは既成の規範性にとらわれた唐詩の持つ一つのもろさ、弱さであると見たい。表面花々しく彩られた唐詩の活動の根底にひそむ脆弱性が、はからずもこんなところにも露出しているのではないか。同じく西域音楽を詩材にとりあげるにしても、白楽天、元稹などのいわゆる新楽府形式においてとりあげられているその眼は、これらに比べてはるかに斬新さがあり、対象に忠実であり、概念を廃して正直である。はからずも西域音楽のとりあげ方という面から見て、白楽天、元稹などの作品の眼が、興味をもって見直されるのであるが、こういう角度から二者の文学態度が改めて見直されてよいのではないかと思う。この点については、又今後の考察にまちたい。(二九・一一・三〇)

(c)Suzuki Emiko, 2016

当連載について

『漢文教室』は、1952(昭和27)年5月に創刊されました。
 漢文教育振興の気運が高まっていた当時、小社では諸橋轍次先生を編集顧問に、中西清・鎌田正・大木春基・鈴木修次・小林信明・尾関富太郎・牛島徳次の先生方を編集委員とした検定教科書『高等漢文』を発行、雑誌『漢文教室』もこの機に創刊されました。
 漢文教育のありかたについて、また発行教科書について、「理論と実際の両面から活発なる研究を試み、漢文教育の真のありかたを研究する」(諸橋轍次先生「発刊の辞」)ことを目的としてスタートしたこの雑誌は、以来、多くの先生方のご指導・ご支援により、漢文教育界の動向及び最新の教材研究、授業実践等を、全国の先生方にお届けしております。
 当「漢字文化資料館」の「『漢文教室』クラシックス」では、現代の読者の皆様には目に触れる機会の少ない『漢文教室』の古い号から、掲載論考を再掲してご紹介します。

 *各論考は原則として掲載当時の原文に変更を加えずに掲載します。ただし、インターネット上で示しにくい漢字等は、適宜、別字体にするなどの変更をします。図版類についても、適宜、割愛します。
 *論考内で使用されている語や言及されている事実関係については、現在では用いられない表現、現在とは異なる事実等がありますが、各論考の執筆時期をご考慮の上、ご覧ください。
 *「漢文教室」は主に高等学校国語科の先生方にお届けしている雑誌です。(197号以降の号は、大修館書店のサイト「Web国語教室」にて、ご覧いただけます。)

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