『漢文教室』クラシックス
『漢文教室』16号(1955年1月発行)掲載
漢学界の回顧 九(口述)
中国の名蹟巡り
過日附属高等学校の漢文授業を参観した。たまたま欧陽脩の「酔翁亭の記」を授けておるところであったが、教授者はその前の時間に大体の授業を終ったものと見え、若干の生徒にこの文を読んだ感じを絵にかかせておいた。四枚ばかりの作品が展示せられた。そして教授者はその四枚の絵について、全級の生徒に、このうちどの絵が最も酔翁亭らしいか、と判断せしめたのである。洋風のものもあったが、一枚は日本・中国の墨絵式のものであった。すると多くの生徒がやはりその墨絵のものを指ざして、これが最もよい、と意見が一致したのである。その後、当該教授者が私に、実際の景色はどうであったであろう、と尋ねた。自分は前に酔翁亭を親しく訪ねたことがあるので、過去の記憶を辿ってみると、やはり多くの生徒の選定した絵が最も実際の景色に近いことを感得した。これは教授として誠に面白い経験であると考えたと同時に、これがもし又その土地を親しく踏査した人であるならば、一層文章に対する理解も深まることであろうと感じたわけである。こんな考えは実は私の中国留学時代しばしば感じたことであって、自分は時間の許す限りなるべく古人の詩文に現れておる名所古跡を探ることに意を用いたのである。何分三十年四十年も前のことであり、その後戦乱のうち続いた実情によって、私の経験した姿と今の姿とでは更に変化もしておるであろうが、それだけにこれから述べることは、若干の記憶の誤りがあるにしても、別の意味で、過去の遺跡を伝えるのに役立つかも知れぬと考えるのである。
先ず酔翁亭は、津浦線の途中の滁州の山奥にあるのである。私は滁州の駅に下車して先ず目を放ったが、「酔翁亭の記」の巻頭にある有名な文句、「滁を環りて皆山なり」という感じを得ることができなかった。滁州の周囲は殆んど山が見えないのである。然し宿に一泊して、翌日酔翁亭を辿って行くと、「山行六七里」と書いてある通り、日本里数で一里半近く行ったと思うと、水の音がそうそうと聞えて来た。それがいわゆる酔翁亭のもとを流れておる釀泉である。やがて酔翁亭に到着した。ここで目を放つと、周囲はことごとく山である。すなわち「滁を環りて皆山なり」という最初の文が、この亭の周囲を述べたものであるということに気がついたのである。今日の酔翁亭は亭といってもかなり広いものであり、その建築は平屋であったが、風情ゆかしいものであった。周囲は草花も咲きにおうており、古木も茂っておった。「野芳発して幽香あり、佳木秀でて繁陰あり」という叙景は、今も変らぬもののように覚えた。恐らくはこの幽邃の土地において、欧陽脩は酒を楽しんだものであろう。いな、翁は「酔翁の意は酒に在らず、山水の間に在り。」と言っておるから、この自然の風致に陶酔しておったものであろう。私は約三、四時間この亭に憩うておったが、陶然として古人の心と融合するような感を得たのである。その亭から又滁州に帰る途中、しばし左の方に半みちばかり行ったという所に豊楽亭の遺跡があったが、ここには亭も何も既に亡びて存在しておらなかった。ただ、酔翁亭には「酔翁亭の記」、豊楽亭には「豊楽亭の記」を、何れも蘇東坡が大きな文字で立派な楷書を以て書いた碑が立っておったのがうれしかった。「酔翁亭の記」の中に、「水落ちて石出づ」という句があるが、これは蘇東坡の「赤壁の賦」にも出ておる句である。東坡が欧陽脩を学んだものであるとも言われ、或いは又東坡が欧陽脩の句の中に自からの意を加えて挿入して書いたものだとも言われておるのである。文章上の一つの問題である。
同じ欧陽脩の文に「昼錦堂の記」があるが、その昼錦堂は河南の彰徳にあった。これはもとより宋の衛国公の建てたものであり、欧陽脩がその人物に傾倒して作った文であるが、今日行ってみると、これは殆んど昔の姿を留めておらず、中にただ韓魏公の木像だけを安置しておって、当時は彰徳中学校に代用せられておった。
江西省の南昌に遊んだ時、滕王閣に行ったことがある。「滕王閣の序」は王勃の十七才の時に作ったと言われる名文であるが、今日行ってみると、その滕王閣の楼上に方一間以上の大きい木板にこの文が明瞭に刻まれておった。さすがに滕王閣は贛江に臨んだ風景絶佳の所である。「画棟東に飛ぶ南浦の雲、朱簾暮に捲く西山の雨」という名勝は、今も昔も変らぬ姿であった。遙かに川が見え、遠く山を望んでおる。「落霞と孤鶩と斉しく飛び、秋水長天と共に一色」という姿が眼前にありありと展開したのである。私はこの楼上に立ってその序を朗読したが、この文を読んだ感慨として、この時ほど真に文意を会得したと思われることはほかに無かったのである。然し、文中にも「勝地常あらず、盛筵再びし難し」とある如く、この閣もかなり破損しておった。そして当時は南昌の警察署に代用せられておって、二三の警察官が腰に佩びた劔を錚々と鳴らしておった。何事ぞ花見る人の長刀、という感じも起ったわけである。
湖南の岳州に遊んだ時、先ず訪うたのは岳陽楼である。これは滕王閣の二階建てに対し、三層の楼であったが、洞庭湖畔を去る僅か四五町の地に屹立しておるものであるから、ここに登れば、「巴陵の勝状は、洞庭の一湖に在り。遠山を銜み、長江を呑む。」という叙景が我を欺かざることを知った。ここにも楼上に大きく「岳陽楼の記」が刻されておったから、又もこの文を朗読して、昔の盛んであった当時のことを偲んだのである。この楼は、ちょうど当時南北戦争のあった為でもあろうか、兵舎にあてられておって、せっかくの楼の中が南京虫でもわきそうな兵隊の寝台があちこちに散らばっておったので、その点幾分、名勝を探る自分の気分を害したことを今でも覚えておる。
楼上から洞庭湖を眺めると、すぐ目前に娥皇・女英の墳墓の地、君山が浮き立っておった。そこで私は翌日舟を雇うて、君山一遊を試みたのである。君山において虞姫の墓を弔ったことは、前に述べた通りであるが、その帰り道である。僅かの距離と思われても、岳州と君山とは日本里数では五里もあるのであるが、初め快晴であった空が中途において一天にわかにかき曇り、暫らくのうちに波も激しくなって来て、自分の乗っておる小舟は木の葉のように漂わされた。昔、程伊川は水難に遭遇した場合、心に誠敬を存した為に平然としておったということ、或いは又王陽明が同一の境地を得たという、先賢の過去の話などを思い出して、今度は自分の番である、などと初めのうち若干得意であったが、漸次荒れ狂う波浪の激しさに、その誠敬もどこへやら、全くあわてる気分になったのである。舟人もかなり努力はしたが、いかんともすることができない。一時は全く沈没もするかと恐れ、万一の場合を顧慮して靴をぬぎ、服をぬぎかけて運命を天にまかせたのである。そのうち日もとっぷりと暮れて来た。もはや舟人も手のつけるすべがないと言って、かじを捨てておる。中国に遊んだうち、いろいろ危険の思いをしたこともあるが、この時のように恐ろしいと感じたことはなかった。それでも、運も尽きなかったとみえ、夜の十一時近く、計らずも舟は岸辺に近い所に漂い着いた。そこで暗闇の中、ようやく人里遠いある地点に漂い着いて、そのご夜道を二三里歩いて、ようやく城陵磯に行った。他日北京に帰って、その話を胡適に語った。ところが胡適は笑いながら、「岳陽楼の記には、春和景明、波瀾驚かず、という句があるから、君は多分それを常のことと考えたのであろうが、同じ文の中には、陰風怒号し、濁浪空を排す、という句もあるはずだ。それを忘れたのは、まだ読書が足りないのであろう。」と言ってひやかされた。とにかく岳陽楼の訪問は、自分にとって忘れ得ぬ一つの思い出である。当時作ったヘボ詩に、
吾今来上岳陽楼 吾今来り上る岳陽楼
勝跡千年如旧不 勝跡千年旧の如くなりや不(いな)や
日落煙青鳧雁渚 日落ちて煙は青し鳧雁(ふがん)の渚(なぎさ)
秋来風白荻蘆洲 秋来って風は白し荻蘆(てきろ)洲
君山斑竹美人恨 君山の斑竹美人の恨み
汨水寒波騒客愁 汨水(べきすい)の寒波騒客の憂(うれひ)
游子低徊幾回首 游子低徊幾たびか頭(かうべ)を回(めぐ)らせば
帰鴉点点暮雲頭 帰鴉点々たり暮雲の頭(ほとり)
というのがある。
揚子江沿岸の大冶の鉄山を探った翌日、対岸の赤壁に遊んだことがある。ここには寺があって、その中に蘇文忠公の祠堂もあり、又東坡の「赤壁の賦」を始め詩などの法帖が数多く壁にはめられておった。ただ、この土地は実際の揚子江からは少し離れており、又その地もさほど高い所ではない。「断岸千尺、山高く月小なり」という「後の赤壁の賦」の風致は更に見られない。況んやその辺は、菜の花などの咲いておったかなり平坦に近いような地勢であって、「巉巖を履み、蒙茸を披く云云」という恐ろしさの気分は更になかったのである。黄州がすぐ目の前にあることは確かであるが、「西夏口を望み、東武昌を望む。」という句も実地と一致せぬ感じがする。漢口から長沙に行く途中、左岸に又一つの赤壁と称する所があって、赤壁の戦はこの地であるとも伝えられておるが、或いは東坡の遊んだのもその地かも知れない。とにかく、大冶の対岸の赤壁は東坡の文に比して、遙かに平凡なものであるという感じを得たのである。山陽の「耶馬溪の記」は実際の耶馬溪に遊んだ者をして、むしろ失望せしむると言われておるが、「赤壁の賦」も或いは文人の文飾が多かったものかも知れない。
赤壁は今述べた如く、むしろその平凡さに驚いたのであるが、これに反して、大冶の鉄山の奥に、東方朔の隠棲の地と言われる東方山がある。これは雄獅子山の一角であるが、前には茫々たる沢水を望み、その中に小島の姿をした鬱蒼たる部落があちこちに点在している。あたかも松島の何十倍もある雄大さを感ずるので、これこそは天下の勝概であるという感を得たのである。
武昌に遊ぶと黄鶴楼がある。「昔人已に黄鶴に乗じて去る、この地空しく余(あま)す黄鶴楼」というのであるが、今日の楼は屋根こそ破風作りの形をしておったが、何分洋風の建物であるから、仙人の遊んだという昔の気分は漂うておらなかった。かつこの地は今日かなり歓楽の遊び地となって、路傍には売卜者などが数多く立ち並んでおるから、懐古の情は殆んど起らない。「芳草萋萋たり鸚鵡洲」という鸚鵡洲は、当時材木の置き場となっておった。
南京の鳳凰台は李白の詩で有名であるが、これは全く跡かたもなく、ただその残礎だけが残っておったのである。然し、「総べて浮雲のよく日を蔽ふが為に、長安見えず人をして愁へしむ」という当時の憂国詩人の風懐を偲ぶことはできたと思う。
八家文や文章軌範や、或いは古文真宝などに見る文章で有名になっておる名勝について、私の実地踏査したものは大体こんなものであるが、まだそれほどのものでなく、古人の遺跡を偲ぶに足るものは、あちこち甚だ多かった。
九江の町から少し離れた所に琵琶亭がある。言うまでもなく、白楽天が「潯陽江頭夜客を送って」、計らずも江上の一嫠婦の琵琶に感じて、青衫を湿おした所である。これも琵琶亭としては何も残ってはおらない。石油倉庫の中にただ「琵琶亭」と記した匾額が一つ僅かに昔を偲ぶ資料として残されておるぐらいのものであった。
漢口の月湖のほとりに、伯牙・鍾子期の遺跡として、ゆかしい「弾琴の跡」というものがあるが、それも実物としては何も残っておらない。
山東省の青州から少し離れた町外れに釣魚磯がある。これは漢の厳子陵の魚を釣ったという遺跡である。厳子陵は後漢の光武帝の故人であり、王侯に仕えず、そのことを高尚にす、といったふうの人で、光武と徳を同じくして寝(い)ね、足を帝腹に加えた為に星座を動かした、と言われる高士であるが、これ又今日何も残っておらない。
洞庭湖のわきには、唐の呂洞賓の呂仙亭があり、又君山の中には、これも呂洞賓の朗吟亭があった。
仏教に関する遺跡は、廬山を中心として数多くある。東林寺の附近には白蓮社の遺跡もあり、虎渓三笑の遺跡もあった。日本に有名な達摩の遺跡としては、河南の華山のふもとに少林寺があり、又南京の鶏鳴寺は梁の武帝と達摩との問答の地と言われておった。廬山を中心として、秀峰寺・帰宗寺・万杉寺などというお寺があって、今日なお各々数百人の僧侶が住んでおったが、ここには仏教以外にいろいろ遺跡を持っておる。帰宗寺には「王羲之の墨池」というものがあり、又この附近に「右軍の故宅」という跡もあった。万杉寺には「竜虎慶嵐」という刻石があり、何人の書いたものかは分らないが、何れも一字の大きさ六七尺はあろうと思われる大書で、中国遊歴中初めて見たものであった。李白の観瀑の瀑布が、東林寺から見えるものであるか、或いは秀峰寺から見えるものであるか、よくは知らないが、秀峰寺から望み得る二つの滝は極めて壮大なもので、「飛流直下三千尺」という詩句に合しておるように思われた。
以上いろいろの名所旧跡について述べたが、これも私にとっては漢学界の一思い出である。(続) (二九・一一・一三筆記、文責在牛島)
(c)Morohashi Tatsuto ,2015
当連載について
『漢文教室』は、1952(昭和27)年5月に創刊されました。
漢文教育振興の気運が高まっていた当時、小社では諸橋轍次先生を編集顧問に、中西清・鎌田正・大木春基・鈴木修次・小林信明・尾関富太郎・牛島徳次の先生方を編集委員とした検定教科書『高等漢文』を発行、雑誌『漢文教室』もこの機に創刊されました。
漢文教育のありかたについて、また発行教科書について、「理論と実際の両面から活発なる研究を試み、漢文教育の真のありかたを研究する」(諸橋轍次先生「発刊の辞」)ことを目的としてスタートしたこの雑誌は、以来、多くの先生方のご指導・ご支援により、漢文教育界の動向及び最新の教材研究、授業実践等を、全国の先生方にお届けしております。
当「漢字文化資料館」の「『漢文教室』クラシックス」では、現代の読者の皆様には目に触れる機会の少ない『漢文教室』の古い号から、掲載論考を再掲してご紹介します。
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*「漢文教室」は主に高等学校国語科の先生方にお届けしている雑誌です。(197号以降の号は、大修館書店のサイト「Web国語教室」にて、ご覧いただけます。)