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『漢文教室』72号(1965年6月発行)掲載

中国人の歴史観


一 中国史学の源流
 歴史は物語りから生れたといわれる。ヨーロッパ語で、歴史学、歴史書を意味する History(英)、Histoire(仏)は何れも原来は口で語られる「物語り」を意味した。遠いヨーロッパの例などをひくまでもない。日本の最古の歴史である「古事記」は、稗田阿礼という素晴らしく記憶力のつよい老人が覚えていた物語りを文字に書きとったものだといわれる。
 ところで、この記憶された物語りというのは、いったいどういう内容かというと、それは必ずしも今日我々が考える歴史というものとは完全には一致しない。もちろん其中で、いわゆる歴史と見られるものが大部分を占めているには違いないが、実はその外に、当時のあらゆる知識が含まれているのである。たとえば古事記の中に、因幡の白兎の話が出てくる。実はこれは当時の医学の知識だったのである。傷を直すに、塩分や塵を淡水でよく洗い落し、綺麗なガマのホワタで包んでおくと治癒するものだという知識を、大国主命の事蹟の中に織りこんでいるのである。また日本武尊が焼津で、火攻めにあった話が出てくる。これも当時の実際的な知識で、もえひろがった野火を鎮めるには、反対側から、迎え火を放つと、双方がぶつかった所で鎮火するものだという知識が入っている。その外、航海上の知識やら、戦術上の知識やら、あらゆる種類の知識が盛りこまれているのである。
 但し古代人の知識は、単に知識そのままでは知識として自覚されなかった。古代人は農業をしたり狩猟をしたり、時には旅行をしたりするので、それに必要な知識を彼等なりに、割合に多くもっていたが、それは日常の生活の中へすっかり溶けこんでしまって、至極当然のことと考えられ、丁度人間が不断に空気を呼吸しながら、つい空気の存在を自覚しないように、誰でも知っている知識は、誰にも知識として自覚されないのである。ただその知識が、何時から始まったか、誰が発明したか、ということになって始めて、それが知識という特別なものになり、記憶力のすぐれた特定の人の占有になり、一般の人たちは、その人から時々、物語りをして貰って、知識の分配にあずかるのである。
 ところが中国における歴史の起原は、少し趣が違うように見えるのである。というのは中国の歴史は、記録から出発したと考えられるからである。そして古代にあっては、記録というものは、最高権力者に独占されていた。だから、中国の歴史は、王者の記録から始まったといえるのである。
 中国の最古の歴史書は「書経」である。これは国王、あるいは国王にかわる実権者の軍令、訓戒、誓盟などを文字に書きとったものの蒐録である。現在の形の書経は、最初に、西周の初期、周公が摂政をして成王を助けていた時代の記録がまず出来て、それが中心になり、後世更にその前とその後へ、色々な記録が付加されて出来上ったものであろうと考えられている。
 さてこのような記録が、どうして長く後世まで伝わったか、という事情も併せて考えなければならない。これは私の個人の考えであるが、書経の中の各篇は、その事実があってから暫く後に実際に文字に書きとられ、或いは鼎や盤などの青銅器に刻されたり、或いは竹簡に漆で書いたものをつなぎ合せて巻物の本の形にしたりして、宮中や神殿の中に所蔵されたのであろう。そして同時に当時の記録官がその副本を造って自ら所有し、その子供に文字を教える時の教科書に使用したに違いない。父親である先生は、子の生徒に向って、口で話した言葉をそのまま文字に書きとらせる。この訓練は記録官としては、最も重要な学修である。何となれば子が成長して、父の代りに記録官となったとき、君主の前へ出て、君主に命ぜられた通りに、その言葉を文字に書き取らなければならないからである。いったい書経の「書」という字は、聿という字と、曰という字からなっている。聿は則ち筆であり、曰は言うまでもなく、子曰くの曰くで、言葉を意味する。言葉を筆で書き取るのが書であり、文字を書くのも書であり、書かれたものも書であり、書かれた記録の中で最も大切なものを集めたのが書経なのである。後には凡ての本が書と称せられるようになった。現在の書経はこういう必要があって、後世に伝えられたものなのである。
 このように記録を司る官吏が、特殊な職業であって「史」と称せられた。日本ではこの字をフヒト、則ち文字を掌る人、と読み、またフミ、則ち書物の意にも読む。中国の史も同様に、国王又は有力者に仕えて、記録を掌る役であったが、同時に古くから伝えられた記録の内容に精通している物知りであり、従って政治上の顧問にも備わっていた。史の職は最初は世襲的に親から子へ伝えられたが、後になって、恐らく春秋時代の末頃の社会の変革期に、教育をうけた者が史に採用される途が開けてきたと思われる。
 書経の次に出来た歴史書は「春秋」である。これは周王朝の分家である魯の国の記録であって、隠公元年(前七七二年)から哀公十四年(前四八一年)に至るまで、二四二年間にわたり、魯国の政治や外交の上の大事件を、年代順に簡単に記録したものである。もっとも大事件といっても、古代人の考えた大事件は、今日の我々の考える大事件とは、甚だ趣が違っている。たとえば日蝕のような天然現象は、今日から見れば何も大した事件ではなく、人事現象を取扱う歴史には殆んど関係なさそうに思えるのであるが、古代人にとっては、これが重大事に思えた。それは彼等の考えでは、天体現象と人事現象との間には密接不可分の関係があり、もし一国の政治が巧くいかないと、それは君主の考えが間違っているためであり、そのような時には天が、君主に対して反省を求めるために色々な異変を示す、それが日蝕になったり、彗星になったりして現われるのだとする。だから天体にそのような異変が起った時は、どこか政治に重大な欠陥があった証拠だとして、史官は忘れずにそれを記録に留めておくのである。
 このようにして累積された魯国の年代記が、孔子の手によって整理されたのが、現在の「春秋」であるという。果してこの春秋の整理者が孔子自身であったかについては疑いもあるが、兎に角これによって、魯国を中心とした文化国家群の、ごく大体の変遷は伺うことができる。但し、春秋の本文は極めて簡潔な、極度に字数を節約した記載であるから、これだけでは前後、縦横の関係が少しも分らない。恐らくこの記録された書物を中心として、これに伴ってその説明ともいうべき部分が物語りとして口から口へ伝えられていたものであろう。それが文字として書きとられたのが即ち「伝」であって、「公羊伝」「穀梁伝」「左氏伝」の三種があり、春秋三伝と称せられる。「公羊伝」には議論の部分が多く、「左氏伝」には詳細な事実についての説明があるが、春秋の本文即ち経の意味を明かにする役目を勤めている点においては共通である。もし伝がなかったなら、春秋経だけでは殆んど歴史の体裁をなさない。そして伝が初めは言葉で語り伝えられ、それが現今のように文字に書きとられて書物となったのは春秋時代からずっと後の、恐らく漢代の初頃ではないかと思われる。春秋三伝こそは、正しく日本の古事記に相当するものである。中国では文字の発達が非常に早くから行われたので、日本との間に、色々な方面で、ズレが起るのは怪しむに足らない。
 口碑、或いは伝説といわれる、口から口へと語り継がれた物語りは、春秋の伝ばかりではない。中国の各地に、そのような物語りは発生し、伝承された。そしてそれが各地で書き取られ、各地で集録された。「国語」とか「戦国策」とかいう、現在まで伝わっている書物はその一例である。なおこの外に同様な書物が無数に存在したことであろう。惜しいことにそれらの多くは、戦乱や革命のために、意識的に破壊されたり、無意識的に消滅してしまったりしたのである。

二 史学の成立
 春秋から戦国へ、戦国から秦漢時代へ、中国社会は着々と文化、経済の方面で発達していった。なるほど、その間には戦争も起り、混乱も生じた。併し不幸な事態は、要するに分裂した中国社会が、統一され、組織立てられた漢王朝の中央集権帝国を生み出すための陣痛に外ならなかったのだ。
 この目ざましい文化の発展の間に、人間の知識や、記録の分量は日増しに堆積されて厖大なものになった。そこで此等の知識を整理し、統合しようという動きが起った。そしてそれは恰かも政治上の統一の動きと平行するかに見えた。即ち秦の政治上の統一が進行しつつあった際、秦の実力者のナンバーワンであった呂不韋の手でまず知識の総合が試みられた。彼はその富力と政治権力とにまかせて、多数の知識人をその傘下に集めたが、彼等の助けによって、「呂氏春秋」なる書物を編集した。これはいわば当時の百科全書でもあり、世界史でもあったのである。
 この本は一年十二月の各月に行うべき政治の方針を述べ、これに従って成功し、或いはこれに背いて失敗した過去の事例を載せている。一年十二個月で繰返すから、結局この本は、あらゆる時期に通用する政治の原則を網罹したことになる。そして過去のあらゆる重要な歴史上の出来事をも記述したことになる。現在でも「今日の歴史」というような歴史記述のやり方がある。一年三百六十五(六)日の各日につき、過去のその日に起った歴史上の大事件を記して行けば、一年で大凡そ世界史上の大事件は全部網罹できるのと同じである。なお以上の十二紀に対する補遺として、この「呂氏春秋」には、八覧・六論というものがついている。これで当時に必要な知識というものは、全部盛りこんであると考えたのである。この書について、著者の呂不韋の自信は大したものであり、この書が出来上ると、それを当時最も人通りの多い、国都咸陽の市場の門にかけ、この書を読んで、一字でも訂正することの出来る人があったら、千金を与えようと広告したという。千金というのは、当時の一流の金持が所有する全財産の額である。但し勇敢にこの挑戦に応じて、千金を獲得した果報者は、とうとう現われなかったようである。
 秦が亡んで後に、漢の時代に入り、世情も安定し、国内政治も整頓され、名実ともに統一国家となった武帝の時代に現われ、呂不韋のあとをついで、知識、記録の総合を計ったのが、司馬遷である。彼は父の司馬談を相続して漢朝廷の史官となり、古記録を自由に閲覧する便宜を得て、空前の名著「史記」を大成したが、この書は現今我々が考えている狭い意味の歴史に止まるものでなく、実にあらゆる知識を統合してこれを後世に伝えようという、極めて独創的な野心をもって書かれている点を注意しなければならぬと思う。
 史記は後世から「通史」の見本とされているが、その取扱う時代は、人間の到達しうる最も古い五帝の時代から、司馬遷自身の生存している武帝の時代までの全年代を取扱う。同時にこの書は空間的にも、大凡そ当時の人が聞知しうる極限のはて、西アジア地方の事情までも記述の対象として取上げる。また自然科学上の知識、たとえば暦学の記述もあり、別に音楽の知識、経済学の知識をも含む。併し彼が最も興味を感じたのは、人間の生き方であった。彼は一個の庶民として、あらゆる種類の人間の生活様式に、深い理解と暖い同情とを示す。博徒としての遊俠や、暗殺者としての刺客や、金儲けに成功した貨殖家や、或いは占い師、人相見に至るまで、夫々の生き方に夫々の意義を見出すのである。このような人物の特殊な行為はそのまま忘却に任せてはならない、必ず後世に伝えて保存する義務があると彼は責任を感じた。そこで彼は、稀に見る情熱の書、「史記」百三十巻を著したのであった。
 「史記」は、本紀と年表と書と世家と列伝とから成っている。本紀は主権者の系譜を中心とした、政治上の大事件の記述であり、年表は主として中国が分裂状態にあった春秋、戦国、秦漢交替期などの間、割拠政権と割拠政権との国際関係を一目瞭然たらしめるための対照表であり、書は制度、文化などの記載であり、暦学を記した暦書、天文知識を記した天官書、財政政策を記した平準書などはこの中に含まれる。世家は地方政権、即ち春秋時代の諸侯や、戦国時代の独立軍事国家や、漢によって封建された一族や功臣の系譜を記述する。孔子だけは一度も大名の地位についたことはなかったが、後世学問の祖として崇められるので、特に孔子世家が立てられている。最後の列伝は、多彩な人間生活の個人の記録であり、隠遁者、陰謀家、戦術家、学者、政治家、文学者、その他あらゆる種類の人物の伝記を含む。列伝には一人のために一巻を捧げたものと、相類したもの二、三人を併せたもの、及び同類を一まとめにして、孔子の弟子とか、金満家とか、刺客とかいう集合名詞によって伝を立てたものとがある。中国から見て夷狄とされる異民族を、国別、または民族別に、大宛伝とか西南夷伝とかに記載したのは、グループ別記載の方法を適用したまでである。
 司馬遷は「史記」の、このような体裁により、彼が獲得した、あらゆる種類の知識を網罹し得たと信じた。彼の知識慾は甚だ旺盛であり、当時既に竹簡や絹に書きとられていた書物、古記録をあさる外に、広く各地を旅行して、その地の古老から、今昔の物語りを聞いてまわったのである。従って「史記」の中には、古記録を再生したものの外に、司馬遷が旅行によって自身が採集した特種が多く盛られているのである。実は史記の中で名文と称せられる、活き活きとした個人の描写は、こうして古老の口から聞いたものが多かったと思われる。この古老連中は、何も司馬遷一人のために、その話題を提供したばかりではない。凡て古代人は好んで城内の市場に集まり、ひまつぶしのために古老にせがんで、古今の名人の逸話などを身ぶりたっぷりに話させ、打ち興じて日を送っていたのである。そして口から口へ語りつがれ、同じ話を大衆に向って、飽きずに何返でも繰返すうちに、その言葉が極度に洗練され、立派な文学になっていた。司馬遷はそれを文字に書き取ったに過ぎない。今をときめく、昇天の勢いの強国、秦の朝廷へのりこんで行って、万人環視の中で始皇帝を刺そうとした不敵な刺客荊軻の話、食客三千人を養っていても、いざという時には、よぼよぼの老人の知恵と、力持の肉屋に頼るより外なかったという信陵君の話などは、「史記」の中でも叙述の妙を極めたと称せられる名文であるが、これはどうも一人の個人の頭の中で考えだした文章ではない。この文章は明かに聴衆を意識して物語られ、相手の大衆の反応を身に感じながら、推敲に推敲を加えた末に出来上ったものに違いない。大衆こそは最大の傑作を生み出す母胎である。我々は司馬遷を個人的な名文家と考えるよりも、当時の社会に普通に行われていた民間の物語りの中に不朽の価値を認め、これを是非後世に伝えなければならぬと決意して、史記の中に保存してくれた司馬遷の業績こそ讃えらるべきであると思う。彼は巧妙な創作者であるよりは、偉大なる発見者というべきであった。
 司馬遷自身は恐らくその「史記」の著述によって、後世、史学というような、経学に対立するほど大切な学問の開祖になろうとは予期していなかったであろう。彼の目的は、価値ある知識を総合して一書にまとめ、これを後世に伝えるにあった。そして知識の総合のために最も適当な形式を考案した揚句の結論が、前述の本紀・年表・書・世家・列伝という体裁であった。彼は恐らくこの体裁が彼独自のものであると考え、後世続々とその模倣者が現われることも、恐らく予想していなかったに相違ない。

三 史学の伝承
 ところが司馬遷が歿してから百数十年たった後になって、始めて有力な追随者が現われた。後漢初期の班固がそれである。彼は史記の体裁に倣って「漢書」を著わした。この書は、史記で書といっているものを、志とよびかえているが、その外にも史記との間に、大きな性質上の相異がある。
 第一に「史記」は通史と称せられるように、太古から現代にわたる全時代史であるが、「漢書」は前漢一代に時代を限っており、後世、断代史と称せられる。従って、司馬遷が意図したような、全知識の総合という理想は失われ、単に前漢という王家の盛衰に叙述がしぼられてくる。その善悪は別として、後世の人の考える専門の歴史というものに、それだけ近付いてきた。
 第二に司馬遷は前述のように、自ら史料を採訪し、民間の口話伝説を収集したが、班固の用いた史料は、殆んど書かれた記録に限られている。従ってその文章は変化に乏しいが、但し全般的に見てソツがない。この態度は後世の歴史家に殆んどそのまま受けつがれている。史記のような、物語りによって伝えられた絶妙な文字は永久に史学から姿を消してしまった。
 第三に司馬遷は朝廷の史官であるが、なお一市民としての庶民的感情をもっていた。これは当時の都市生活によって支えられているものであって、彼は儒教の信奉者ではあっても、なお他の学説にも耳を傾け、遊俠や不逞の輩に対してもそれなりに共感する所があった。ところが班固は宮廷儒者であり、儒教の主義をもって、凡ての人間の生活を規律し、批判する原則とする。従ってその視野は極めて狭く、歴史を以て支配階級の独占に陥らしめる。不幸にも、この傾向はそのまま、更に後世の歴史家に遵奉され、歴史は大衆から遊離して行く。
 我々から見ると、班固にとって弱点としか思えない所に、班固自身は反って誇りをもっていた。彼は史記の体裁をそのまま借用しながら、しかも自己を以て司馬遷の追随者とは考えない。むしろ司馬遷の失敗を救済する改革者と考えていたようである。
 併しながら「漢書」は、その史料の配置といい、既成史料の選択といい、何といっても名著の一たるを失わない。そして史記と漢書の二書が続けて同じ体裁をとったことの後世に与えた影響は多きい。後漢以後の歴史も多くは、この体裁に従って書かれ、最も重要な部分をなすのが、本紀と列伝とであることによって、紀伝体と称せられる。現今、正史とか二十四史とか称せられるものは、何れも史記・漢書及び以下の後継者である。数学の上で、一点は線を決定しないが、二点によって線が引かれる、という。中国の歴史学においても、史記の次に漢書が現われて、始めて歴史記述の正式な体裁が紀伝体と決定されたわけである。
 ところが、この決定者である班固自身が、実はその事を自覚していなかった。もちろん彼は司馬遷が、歴史学の祖先であることも承認していない。「漢書」の中で書物の分類をしている芸文志の記載によると、史記は春秋の末流と見られ、あまり重要でない史書と同居し、独立した地位すら与えられていない。尤もこの分類は前漢末の劉向・劉歆父子の方法に従ったのであるが、さて班固自身にもしその漢書を、どの部門に分類するかと尋ねたなら、恐らく史記のあとへ置こうとはすまいと思われるのである。
 後漢が亡びてしまってから、後漢一代の歴史を紀伝体で書いて見ようという試みは、多くの人たちによって試みられた。現在残っている「後漢書」はその中の一種にすぎない。こうして王朝の代替り毎に、前代の歴史が紀伝体で編纂された。それが段々積って唐代頃になると学者も、図書の整理係りも、歴史学という学問の一部門を独立させて経学に対立させ、その首位に史記、次に漢書をおき、やがては以後歴代の史を一部宛択んで正史と名付け別置せざるを得なくなったのである。
 こうして史記の紀伝体を蹈襲した正史が続々と現われて、史学の正統の座を占めたのはよいが、また一方、長く続いた伝承の間に、好ましくない傾向も現われてきた。それは体裁の上から言って、本紀と列伝だけを具えるが、年表や志を欠く場合が、少なくないようになった。前漢書を継ぐ范嘩の「後漢書」が既に表と志を欠き、後人が志の部分を他書から取って補っているが、表は遂にそのままになっている。しかも借りてきた志の中には、経済を取扱うはずの食貨志が姿を見せぬ。後漢書の後にくる「三国志」は、本紀と列伝だけしかなく、表・志は後世からも補うことが出来なかった。これは歴史の編纂がもっぱら机の上での史料整理と化し、現に存在する書籍を扱うだけで満足し、著者自ら新しい隠れた史料を捜訪しようという努力を怠るようになった結果である。そしてこれは同時に当時の社会に貴族政治が行われ、学問も従って貴族化され、学者の注意が狭い貴族階級の内部に向ってしか注がれなくなった事実と併行する。司馬遷の「史記」が、あらゆる知識の総合を目ざした初意と、著しくかけはなれてきたわけである。
 紀伝体という体裁が矮小化されると共に、歴史家にとって必要な、貪慾と思われるまでに旺盛な知識欲、止まる所を知らない活発な視野の拡大、ということも、此等の歴史家には最早望まれなくなってしまった。社会事象に対する健康な批判力、史料に対する透徹した選別眼もまた失われてきた。歴史家は安易に、政府に保存された図書を唯一の史料として、それを本紀と列伝の形にまとめ上げればそれでよいと安心していたのである。
 こういう大勢に対して、史学に興味を有する学者は、現状にあきたらずして批判を加え、或いは新しい歴史の体裁を考察したりするが、それはまだ正史の紀伝体に取って替るほどの力をもたない。併し時々現われる史学についての反省、研究方法についての新しい提案などには、甚だ傾聴に値するものがある。例えば唐の劉知幾の「史通」に示された見識などがそれである。いまここに、清代の史学評論家ともいうべき、章学誠の意見を紹介して、中国史学の一端にふれて見ようと思う。

四 史学の反省
 章学誠(一七三八─一八○一)は清朝の全盛時、乾隆期の学者であるが、その天才的な学識にも拘わらず、一生を不遇の中に過した。その名著「文史通義」も、中国で一部の学者の間には持てはやされたが、一般学界では十分に理解されずにいた。その真価を始めて認識して世上に紹介したのは、日本の内藤湖南博士であり、続いて民国の胡適博士がその年譜を単行本として著わし、一方その全集たる「章氏遺言」の活字本も発行され、彼の学問上の功績に対する声価が頓に高まった。
 「文史通義」は、実は文学・史学・経(哲)学の全般にわたっての意見をのべたものである。但し書名には文・史とのみあって、経学の名が出ていないのは、彼には独特の主張があって、「六経は皆な史なり」、即ち経書は歴史書に外ならぬという立場があるからである。史を論ずれば経はその中にあるから、別に文・史・経と重複させる必要はない、というにある。中国では他国の哲学に相当するものは、儒教の経書を対象とする経学であるから、結局「文史通義」は、文・史・哲の三科、いわば人文科学全般に対する意義の検討ということになる。
 それなら「六経は皆な史なり」とは、抑もどういう意味であろうか。六経の中で、書経と春秋とは歴史書であることには問題がない。ところで章学誠によると更に他の経書、詩経や易経や礼や楽もみな歴史の一種だと言おうとするのである。この思想の根底には、経書の一である「周礼」が横たわっている。
 「周礼」は周王朝の創立者の一人、周公が定めた制度を記したものといわれ、章学誠の解釈に従えば、その根本の方針は官・師一致であるという。政治は本来教育でなければならず、従って政治に携わる官吏は、教育者たる師匠と同一であった、それが官・師一致である。当時の官吏は人民を教育する参考のため、民間に行われている歌謡を採収して記録したが、それが「詩経」であり、朝廷や官庁で実際に儀式を行って見せて、人民に模範を示した時の記録が「礼」や「楽」であり、また天の意志を知るために行った占卜の種本が「易経」になった。これらが儒教の経典とされて、「書経」「春秋」と合せて六経と称せられるが、それらは何れも事実の記録であり、事実の記録は即ち史に外ならぬ。故に「六経は皆な史なり」という結論になり、同時にこれが、他の議論の出発点にもなっている。
 それなら何故、わざわざ「六経は皆な史なり」と言わねばならなかったかというと、当時経学は全く思弁の学として、純哲学的なものに化し、現実を離れて空論に走る傾向が強かった。明代に盛んであった王陽明の学派に特にこの弊害が甚しかった。これに対して章学誠は、儒教の経典というものは、そのような空理空論を述べているものではなく、事実を根底にふまえての記述であるから、もっとその点を認識し、これを現実に役立つ教育の題材にしなければならぬと主張するのである。
 それと同時に、当時の史学の側にあっては、これはまた単なる事実の羅列に終って、全く思想を欠き、理想を失ってしまっている。併し歴史は権力者に独占されてその装飾物となってしまった死せる記録であってはならず、それは現実の教育に役立たせなければならぬ。「六経は皆な史なり」という言葉の裏には、過去の聖人が人民教育のために編纂した記録は経書であるが、後世の学者も同じように人民教育のために役立つ記録を集めて、歴史を編纂せねばならぬのだ、という重大な決意がひそめられているのである。
 章学誠は科挙にたびたび失敗し、それでもやっと進士になった時はもう四十歳をこしていたので、官界においては立身出世する望みがなく、従来からのアルバイトをそのまま本業のようにして日を送った。当時は経済界も好景気に恵まれていたので、地方の大官は公費や私費で、有名な学者を参謀に抱え、地方誌の編纂などの仕事を与えて優遇し、それをまた自分の成績にして自慢しあった。章学誠もそのようにして地方大官に召抱えられて、地方誌編纂で渡世する学者の一人であった。併し良心的な彼は、地方紙編纂を単に衣食の資として等閑視することなく、地方誌の真の目的は何であるべきかを真剣に考えぬいたのであった。
 彼によると従来の正史は、あまりに中央政府の動向を記すに偏よりすぎている。併し本当の歴史は地方末端の人民の存在を無視してはならぬ。地方政府で直接人民に接触する下層の書記、胥吏が取扱う帳簿類こそ貴重な史料になる、という。この胥吏というものは、近世の中国に出現した変態的な知識階級で、貴族的な上層官僚、いわゆる士大夫階級からは殆んど賤民扱いにされていた事務手伝いである。ところが、章学誠は、本当の歴史にとっては、彼等の書く下手な文章が史料として大切なものであり、こうして編纂された地方誌が先ずあって、これを史料として全体の歴史を書けば、遺漏がなくなるであろうという。
 歴史学は地方の末端の隅々にまで目をくばらねばならぬという章学誠の主張は、大昔の司馬遷が地方を旅行しては史料を採集し、あらゆる知識の総合としての「史記」を著わした態度と共通なものがある。歴史学の根本的な本質をついた立派な議論であると思う。
 その外に章学誠は、歴史書というものは勢い分量が浩瀚なものになるから、もっと見易く取扱いに便利なものにする工夫を考えねばならぬといい、索引になるような目録を付けるべきだとの提案を行っている。彼にあっては歴史学は飽迄、実用の学でなければならなかったのである。このような点は或いは章学誠が西洋の近代的な学問研究の方法を知っていたのではないかという疑問さえ抱かしめる。併しながら彼の歴史学を貫くヒューマニズムは、時流よりも一段と進歩しているとはいえ、まだそれは頗る旧式な儒教の範囲を出なかった。歴史学をも含めて、凡ての学問が旧態を脱して面目を一新するには、清末における西洋の近代科学の伝来、更に民国初年の思想革命、文学革命を持たなければならなかったのである。

*本論考は『宮﨑市定全集17 中国文明』(岩波書店)にも収録されています。

(c)Miyazaki Kazue ,2015

当連載について

『漢文教室』は、1952(昭和27)年5月に創刊されました。
 漢文教育振興の気運が高まっていた当時、小社では諸橋轍次先生を編集顧問に、中西清・鎌田正・大木春基・鈴木修次・小林信明・尾関富太郎・牛島徳次の先生方を編集委員とした検定教科書『高等漢文』を発行、雑誌『漢文教室』もこの機に創刊されました。
 漢文教育のありかたについて、また発行教科書について、「理論と実際の両面から活発なる研究を試み、漢文教育の真のありかたを研究する」(諸橋轍次先生「発刊の辞」)ことを目的としてスタートしたこの雑誌は、以来、多くの先生方のご指導・ご支援により、漢文教育界の動向及び最新の教材研究、授業実践等を、全国の先生方にお届けしております。
 当「漢字文化資料館」の「『漢文教室』クラシックス」では、現代の読者の皆様には目に触れる機会の少ない『漢文教室』の古い号から、掲載論考を再掲してご紹介します。

 *各論考は原則として掲載当時の原文に変更を加えずに掲載します。ただし、インターネット上で示しにくい漢字等は、適宜、別字体にするなどの変更をします。図版類についても、適宜、割愛します。
 *論考内で使用されている語や言及されている事実関係については、現在では用いられない表現、現在とは異なる事実等がありますが、各論考の執筆時期をご考慮の上、ご覧ください。
 *「漢文教室」は主に高等学校国語科の先生方にお届けしている雑誌です。(197号以降の号は、大修館書店のサイト「Web国語教室」にて、ご覧いただけます。)

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