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轍鮒の急 空を飛ぶ魚たち

 「轍鮒[てっぷ]」または「轍鮒の急」という言葉があります。「轍鮒」は困って助けを求めている人のこと、「轍鮒の急」は助けを求めざるを得ない切迫した危機を言います。これは『荘子』雑篇の「外物」に見える例え話から生まれてきた言葉です。

 貧しかった荘子は、あるとき監河侯[かんかこう]という人に食べ物をわけてほしいと頼みました。それに対し、監河侯はもうすぐまとまった金が手に入るから、そのあとで三百金貸してあげよう、と提案するのですが、荘子は腹を立ててこのような話をしました。
 「自分はここに来るまでに道で呼びかける声を聴きました。周りを見回してみると、道にできた轍の溝の中に鮒がいるのです。私が君は何者かと尋ねると、鮒は東海の波臣[はしん]だと名乗り、少しでいいから水をくれと言いました。私はこれから呉越の地に遊説に行くのでそのとき西江の水を引いてきてあげようと提案すると、生きるために今すぐ水が必要な鮒は、『旅から帰ってきたら私を干物やの店先で探すがいい』と激怒したものです。」

 つまり荘子は、将来、多額の支援をしてあげようという監河侯の提案に対し、今すぐ水を得られなければ助からない鮒に自身を例えて、それでは間に合わない、今すぐ支援が必要なのだと伝えようとしたわけです。監河侯が結局荘子にすぐに支援をしてくれたのかどうかなどは、『荘子』には書かれていないので残念ながらわかりませんが、ここから生まれた「轍鮒の急」は、この鮒や荘子のように、未来の支援を約束されても意味がないくらい、今すぐに支援が必要なピンチを表現する言葉となりました。
 「轍鮒の急」の「轍」は馬車などの車輪が道に残すくぼみです。荘子が生きた戦国時代(紀元前四〇三年から紀元前二二一年)の道は、当然アスファルトなどで舗装されていない土の道で、馬車が通れば道は削れてしまいます。同じ場所を何度も車輪が削っていけば、深い溝ができます。鮒はどうやらその溝の中で動けなくなってしまっているようなのです。鮒は鯉の仲間で淡水魚ですが、自分は「東海之波臣」であると名乗っています。「波臣」は魚類をはじめとする水に住む動物たち全般を言います。東海からやってきたということですから、普通の鮒ではなく、もしかしたら東海の神様の使者などであるのかもしれませんが、少しの水(斗升之水)をもらったとして、その後どうするつもりだったのでしょうか。『荘子』にはそのあたりの説明はありませんが、いずれ、この鮒の絶体絶命のピンチから、「轍鮒の急」という言葉が生まれました。

 さてここから、鮒のイメージについて、少し考えてみたいと思います。漢代以前の神話的世界観を伝える『山海経[せんがいきょう]』という地理書には、空を飛ぶ魚「飛魚」に関わる記録があります。そのうちの一つ「牛首之山」の記事(「中山経」)には、その山のあたりに「飛魚」が多くおり、鮒のような姿であった(是多飛魚、其状如鮒魚)と書いてあります。
 鮒の仲間である鯉にも空を飛ぶ故事が見られます。後日改めてご紹介したいと思いますが、『後漢書』に由来する「登竜門」という故事成語も、急流を登っていった魚が竜になるという故事を踏まえており、この魚は一説に鯉であったとされています。また、前漢・劉向『列仙伝』下巻には、人を乗せて仙界まで飛んで行く鯉が登場します。子英という男が赤い鯉を飼っていたのですが、一年くらい育てているうちに鯉に角と羽が生えてきて、最後には大雨の中、子英を背に乗せて仙人の世界に連れて行ってくれた、というお話です。なお、後日談として、その後も地上に住む家族をたびたび訪問した子英が、仙界に帰るときにはその鯉が迎えに来たとも書かれています。
 空を飛ぶ鮒や鯉が多く語られていることを前提として考えれば、この「東海之波臣」を名乗る鮒も、空を飛んでここまで来て、何らかの事情で弱ってしまっているけれど、少しの水を得れば元気を取り戻して、また空を飛べる、ということだったのかもしれません。
 さて、荘子にとっても鮒にとっても状況は命に係わる危機的なものなのですが、荘子も鮒も助けを求めるにしては随分と図々しく、その図々しさがこの深刻な話をどこかコミカルなものとしています。中でもひときわユーモラスなのは鮒の「曾ち早く我を枯魚[こぎよ]の肆[し]に索[もと]むるに如かざらん」というセリフです。「枯魚」というのは魚の干物で、「肆」は店ですから、「枯魚之肆」は干物を売る店でしょう。鮒は荘子の悠長な提案を聞いて、それでは間に合わない、自分は死んでしまうだろうということを、「私を枯魚の肆で探すに越したことはない(水がない以上、死んで干からびてしまっているだろうから干物として売られているだろうよ)」と言っているわけです。
 このセリフは故事の中でも印象深いものであったようで、例えば唐の元稹[げんしん]の書いた恋愛小説「鶯鶯伝」では、主人公の男性が早く恋人と結ばれたいと願う場面で、このように言っています。

「若し媒氏に因りて娶らば、納采問名[なふさいもんめい]すること、則ち三数月間、我を枯魚の肆に索めん。」(若因媒氏而娶、納采問名、則三数月間、索我於枯魚之肆矣。)

 仲人さんに頼んで結婚の仲介をしてもらっていては何か月もかかってしまうだろうから、待ちきれない私はすっかり干上がって干物屋に並ぶことになる、というわけです。先ほどの鮒のセリフをそのまま用いて、「それでは間に合わない、早くしてくれ」と要求しているのでしょう。

 荘子の語った例え話は絶体絶命の状況をいう「轍鮒の急」という故事成語を生み出しました。その一方で「索我於枯魚之肆」というコミカルな表現が後世にそのまま用いられていることからもわかるように、この例え話は、「轍鮒の急」の意味する深刻さにそぐわぬユーモラスなお話としても愛されていたようです。


『荘子』雑篇「外物」
原文
荘周家貧、故往貸粟於監河侯。監河侯曰、「諾。我将得邑金、将貸子三百金、可乎。」 荘周忿然作色曰、「周昨来、有中道而呼者。周顧視車轍、中有鮒魚焉。周問之曰、『鮒魚来、子何為者耶。』対曰、『我東海之波臣也。君豈有斗升之水而活我哉。』周曰、『諾、我且南遊呉越之王、激西江之水而迎子、可乎。』鮒魚忿然作色曰、『吾失我常与、我無所処、吾得斗升之水然活耳、君乃言此、曾不如早索我於枯魚之肆。』」

書き下し文
荘周家貧しく、故に往きて粟を監河侯に貸りんとす。監河侯曰く、「諾[だく]。我将に邑金を得んとすれば、将に子に三百金を貸さんとす、可なるか。」と。 荘周忿然として色を作[な]して曰く、「周昨来るに、中道にして呼ぶ者有り。周顧みて車轍を視れば、中に鮒魚有り。周之に問ひて曰く、『鮒魚来れ、子何をか為す者ぞや。』と。対[こた]へて曰く、『我東海の波臣なり。君豈に斗升の水有りて我を活かさんか。』と。周曰く、『諾。我且に南して呉越の王に遊ばんとす、西江の水を激して子を迎へん、可なるか。』と。鮒魚忿然として色を作して曰く、『吾は我が常与を失ひ、我に処る所無きに、吾斗升の水を得れば然して活くるのみ耳、君乃ち此を言ふは、曾ち早く我を枯魚の肆に索むるに如かざらん。』」と。

(c)Asako,Takashiba 2022

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