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◇PartⅢ 甲骨文字のしくみ

      ―解読を通して知る占いのしくみ―

 

高久由美

 

 前回、「日・月」という身近な文字から、字の形(すがた)に現れた殷人の世界観をご紹介したが、今回は「干支」の話から始めよう。ほとんどの占いの中で、いつも冒頭に記される「干」と「支」の二文字。さて、そのはたらきとは…。

 

〈干支のしくみ──甲骨文字の中でのはたらき──〉

 甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の十干と子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の十二支の文字は、早くも甲骨文中でシステマティックに使われており、干と支の順に二文字を並べた60通りの組み合わせ(すなわち、1甲子、2乙丑、3丙寅…60癸亥まで)によって、60日間の日にちを表わしていた。最後の60癸亥の日の翌日はまた最初にもどって1甲子の日である。

 

                                                            表1

 占いの文の冒頭に干支の二文字を刻してから、占いの内容が続いて刻され、現代風に言うと、日記の書き出しの○月○日のうちの日にちの記録のようなものである。干支が何度も出てくる占いのある一片を例にとってみてみよう。                           

                 

                                                             図1

 前回、甲骨文の日にちの表し方をめぐって、「甲・乙・丙・丁…癸」の十干と、殷人の太陽観の関係について述べたように、殷代の人々は、天には甲から癸まで10個の太陽があって、それらが順番に10日間にわたって繰り返し出てきて世界を照らしていると考えていた。その10日間は「旬」とよばれ、10日ごとの吉凶をうらなうのが「貞旬」(旬を貞す)で、甲骨の中にはこの貞旬のうらないを刻した卜辞が多数存在している。ひとつ、わかりやすい具体例を挙げてみてみよう。占いの文そのものは一句6文字とたいへん短いので、一句ごとに線引きをして句切れを示すと、一句が一行2字、3行の6文字にレイアウトされている。卜骨の右側行の下から3字目の (癸)で始まる一句を解読してみる。干支を表わす文字以外に、解読のポイントとなる文字は4つあり、各字の形と意味は、 (貞:うらなう)、 (勹・旬:10日間)、 (亡:無い)、 (𡆥:わざわい)である。

「癸卯〔の日に〕貞す。旬、𡆥なきか?と」で、占なわれた日は干支表の40癸卯の日で、翌日の41甲辰から50癸丑までの10日のあいだに憂いはないだろうか、と問うている。50癸丑の日に至るとさらに次の10日間の吉凶が占なわれて順に上方向に加刻された。骨の上下の部分が破砕しているものの、40癸卯の日の下には、10日前の30癸巳の日、さらにその10日前の20癸未の日の占いが記され、また、10癸酉の日の上には、さらに10日後の20癸未の日の占いが記されていたことが、破断部分にわずかに残された刻跡から推測できる。このように一片の甲骨上で、 (癸)のつく日にその次の日に始まる次旬の10日間の吉凶が繰り返しうらなわれ、この定期的な占いが下から上へと順に卜骨に刻されていったことがわかる。

 

〈占いを通して見る殷人の日常──文字の中に見える事物の姿──〉

 貞旬以外にも、降雨、農作物の実りの有無や、王室の祭祀の可否などが定期的に繰り返し占なわれ、それらの占いを通して殷人の日常が見えてくることもある。図2に挙げる卜骨には、これらと並んで数多くみられる殷王の狩猟の様子が記されている。

         

                                                  図2

 骨の中心から右方向に刻された占いと、左方向に刻された占いが10日間の時間差で占なわれている点が興味深い。最初の占いは「卜雨卜辞」といい降雨の有無を占うもので、中心線から右方向へと刻されている。卜辞は「辛酉〔の日に〕卜す。韋(占なった人)貞す。今夕、それ雨ふらざるか?」と記され、前回のテーマとなった 字がここでは月ではなく夕(夜、ゆうがたではない)の意味で用いられ、今宵の降雨を問うている。左半分がその10日後の占いで、田猟卜辞と称される、王の狩猟についての占いである。甲骨文における狩猟にまつわる卜辞の数量の多さは、農事に関するものより多いくらいである。ただし、多くの受年卜辞(第2回参照)からわかるように、そのころの殷代社会ではすでに農耕が一般化していたと考えられており、当時の狩猟は食糧の獲得を目的としたものではなく、殷王にとっての娯楽であり、レジャーやスポーツとして行われていた。本片では「辛未〔の日に〕卜す。亘(占なった人)貞す。往(ゆ)きて豕〔猪〕を逐(お)うに、隻(え)〔獲〕んか?」と占われ、王が狩猟に出かけて今回は獲物のイノシシ(家畜化するとブタになる)を追うという、果たして王は獲物を捕まえることができるだろうか、という問いかけである。動詞 (逐、追いかけるの意)は、甲骨文では (イノシシ)とその後ろに続く (人の足)の2字で構成され、獲物を追いかける意味を表わす。その下に再び書かれた は、狩猟の対象物としてのイノシシを表わす。また、獲物の捕獲を表わす動詞 (隻・獲)は、 (隹:トリ)とそれを捕まえようとする (又:右手)の2字で構成され、トリを捕獲しようとする行為を表わしていた。いずれも元々の文字の成り立ちとしては、 (イノシシ)と (トリ)という狩りの獲物に、 (人の足)や (右手)という動作をなす身体の一部が加わって動作行為を表わしている。一方、図2の甲骨片もそうであるが、甲骨文の中で動詞 (獲)を用いて「~を獲んか?」と占われた狩りの獲物は、 (トリ)に限定されるわけではない。むしろ、 (豕:イノシシ)、 (鹿:シカ)、 (麇:ノロジカ)、 (虎:トラ)など、実に様々な動物を「獲」ていたのである。狩猟は殷王の日常的な娯楽であったため、獲物を追いかけたり捕まえたりする行為が繰り返し甲骨文の中に記され、 「追う」や 「獲る」は字形中の (豕:イノシシ)に (隹:トリ)に限定されずに広く様々な獲物を「追いかける」「捕まえる」という意味の文字として用いられていた。

 

 前回から2度にわたって紹介してきたさまざまなジャンルの甲骨文字の卜辞の内容は、そこで占なわれた事柄を通して私たちに殷代社会を考察するヒントを与え、占いを記録した文字を通して、漢字がどのように形成されてきたのかを探求することを可能にしてくれるものである。

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