漢字の来た道
◇PartⅤ 青銅器銘文に記された殷周史
―利𣪘銘文と殷周革命―
高久由美
「酒池肉林」の故事で知られる殷王朝最後の紂王が、周の武王発に討たれた殷周革命。今回はその故事にまつわる銘文を持つ青銅器・利𣪘(りき)をとりあげて、一つの青銅器に記された殷周史の一幕を、文字文化としての甲骨文字との相違点にも留意しつつ、当時の文字を通して解読してみよう。文字文化と考古遺物の邂逅に深い感慨を覚えずにはいられない。
〈利𣪘の出現〉
1976年、陝西省臨潼[りんどう]県で窖(あなぐら)に埋蔵されていた多数の西周青銅器の出土が報じられた。中でも利𣪘は、容器部分の下に方座という一辺約20cm四方の台座が一体鋳造され、高さ28cm、口径22cm、饕餮紋[とうてつもん]と夔紋[きもん]の装飾的な紋様が器全体を囲繞する威風堂々とした風格をそなえた器で、さらに銘文の内容の重大さから、発掘報告が公刊された当初から多くの研究者によって釈読が試みられた。現在は中国国家博物館(北京)に収蔵される、西周初期を代表する重器の一つであり、器の内底に4行32字の銘文が鋳込まれている。(図 左:利𣪘銘文拓本、右:利𣪘銘文釈文)
〈銘文の記事内容〉
銘文32字の記事内容は前半と後半にわけられる。前半(1a~2f)の「武王、商を征す。これ甲子の朝、歳鼎、よく昏[くれ]に夙[あさ]に商を有[たも]つ」(武王が商〔=殷〕を征伐した。ときは甲子の日の朝、歳鼎〔未詳〕、武王は勝利をおさめ、未明に殷を占領した)のくだりが、殷周革命(武王克殷とも称される)の簡明な記事である。一方、『史記』周本紀では、
二月、甲子昧爽[マイソウ]、武王、朝に商郊の牧野に至り、乃ち誓う。(中略)誓い已[お]わり、諸侯の兵の会する者・車四千乗、牧野に陳師す。帝紂、武王の来たるを聞き、亦た兵七十万人を発して武王を距[ふ]せがしむ。…紂の師、衆[おお]しと雖[いえど]も皆な戦うの心無く、心に武王の凾[す]みやかに入るを欲す。紂の師、皆な兵を倒して以て戦い、以て武王に開く。武王、之を馳せ、紂の兵皆な崩れて紂に畔[そむ]く。紂、走り、反って入り鹿[ロク]台[ダイ]の上に登り、其の珠玉[シュギョク]なるを蒙衣し、自ら火に燔[や]かれて死せり。
とあり、討伐軍を率いた周の武王が甲子の日の朝、殷の郊外の牧野の地に攻め込み、戦意を失っていた殷の大軍勢は武器を横倒しにして武王の軍に道を開いて加勢し、敗走した紂王が焼身自殺においやられるまでが“牧野の戦い”として史書に詳しく描写されている。
銘文の後半(2g~4h)には「辛未、王は𪧶[かん]の師に在[あ]り。有吏・利に金を賜う。用いて亶[たん]公の宝尊彝[そんい]を作る」(甲子の日からかぞえて七日後の辛未の日に、武王は駐屯地・𪧶で軍功のあった利という人物に金(=銅の地金をいう)の褒美を授与し、利は王からの賜りものを用いて、自身の先祖である亶公のために貴い青銅器を作った。)と記される。この記述パターンは殷末から行われた殷の成文銘からすでに出現していて、王から臣下に征伐等の功績に対する褒美を授け、受賜者は王を称揚して先公のための青銅器を製作した、など一定の表現形式が備わり、また褒賞として貝(貝貨としてのコヤスガイ)や銅の地金がしばしば与えられたことから「宝貝賜与形式金文」とも呼ばれる。
〈金文に現れる文字の様々な形〉
銘文に登場する人物は武王、利、亶公の三者。前述した「宝貝賜与形式金文」の記述パターンに照らすと、時の周王武王から殷王紂の征伐での手柄に対する褒美を授かったお礼にこの青銅器を作った人物(=作器者)が利である。史書に名の残る武王が、当時の文字で記されると1aのようになるのが興味深い。武王を表わす1aは文字の構成要素をダイレクトに転写すると「珷」のようになるが、武・王二字の合文といって、甲骨文や金文でしばしば用いられる方法である。この器がだれのために作られたかは「亶公の宝尊彝」とある銘文からわかるように、作器者・利の先祖、亶公で、この器の作器対象ということになる。亶公4dは、拓本ではかなり不明瞭に見えるが、構成要素としては、、㐭、虫があり、全ての構成要素がそろうとのように書かれて、後の旜と字形的連続性を持つとされる。この銘文での亶公は、作器者・利の先祖の名まえだが、武王の祖先として文献に伝わる古公亶父(周王室系図)を表した漢字も同じくと書かれていたと考えられている。
〈周王室系図〉
日にちを表わす甲子の子、つまり現在の十二支の第一番目は、本銘文での字形は1fである。なんとも摩訶不思議な姿であるが、甲骨文の時代の十二支の第一番目の、から連続する字形的特徴が見て取れる古代文字である。ちなみに甲骨文や金文に現れるや(子)は、当時は十二支の第六番目、現在の「巳」のポジションで用いられていた。
2c、2dの解釈については諸説あるが、一日の時間帯を示す、昏(よる)と夙(あさ)としておこう。いずれも左を向いた人の側視形(横向きの姿)がベースで、2cは右側に(耳)が付加され聞の初文(最も古い字形)とされている。ここでは聞の字音が昏(よる)に通じて用いられ夜間の時間帯を意味するという。一方、2dは金文の、夙の初文で、手に持った(月)によって日の出前の明りを表わし、早朝の時間帯を意味するとされる。
銘文の最後には、作器対象である亶公を祀るために「寶(宝)(尊)彝」4f4g4hを作ったという決まり文句が記される。寶(宝)を意味する4fには、屋内の宝物として(玉)や(貝)や(缶)が書かれ、また「尊彝」とは当時の青銅器の総称を表わす語で、4gは両手に捧げ持った酒だると階段、4hは羽交い絞めにしたニワトリを両手で捧げ持つ姿を表わしている。
青銅器の名まえはかなり複雑だが、一器一器に「作器者名+器種名」の名まえが付けられており、今回とりあげた青銅器「利𣪘」の名は、利:作器者名+𣪘(簋とも書く):器種名から成り立っているといえる。青銅器には用途によって様々な種類があり、器名の決定には欠かせないが、個々の器種を表わす文字と青銅器の関係については、次の回で改めて述べることにしたい。
新浪観点「国博:说说利簋」
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