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辞典・事典

諸橋轍次博士の修訂版への序文

 大漢和辞典の上梓を終えてから、早くも二十年に垂んとしている。この間、本辞典の普及に伴い、江湖の諸賢から誤植その他について暖い御指示を賜ったことは深謝に堪えない。それだけに著者としての責任を痛感し、本辞典の修正補足に志して来たが、その第一着手として修訂の作業を進め、茲に修訂版の刊行実現の見通しを得る運びとなった。

 そもそも私が大漢和辞典の編著に着手したのは昭和四年であるから、今日に至るまでに正に半世紀を経過した。その間いろいろの場面に遭遇したが、大きく別けて三期に分かつことができるように思う。第一期は創業時代で、あらゆる資料を丹念に集め、これが整理に従事した時代で、昭和二十年の終戦の哀詔を拝するまでである。時に第二巻の刊行は目前に迫っていた。第二期は上述の成果が戦火のためすべて烏有に帰した後、焦土に槌うって再起を計り、兎も角も昭和三十五年完刊の慶びを得るまでである。そして第三期は完刊以後、引き続いて修訂の作業に従事した時代で、それはそのまま今日に及んでいる。

 顧みれば、この間、内にあって蔭ながら私を助けてくれた妻きん、及び十四歳の少年時代から終始変わらず励ましてくれた同郷・同庚・同学の心友近藤正治君を亡い、又本辞典の基礎確立に尽瘁してくれた川又武君他多くの協力者も故人となった。幽明界を異にしているが、此等は終生私と相結んで離れることのできない人々である。この修訂に当たり、往事を偲んで情の転た切なるものがある。

 飜って思えば、語辞は煙海の如く広く、時世の転変は走馬燈に似て迅い。辞典の生命をして不朽ならしめるためには、その修訂増補は幾度か繰り返されねばならぬ。そこで私は昭和六十一年を一応の纒りとして第三期の作業を終え、更に第四期の作業として本辞典の不備を補う増補を計画した。しかし私はすでに頽齢、固よりその任に堪えぬことである。とすれば第三期事業以下については、私に代わる人を他に求めねばならぬ。結局、その学、その能、その年齢、就中その人柄の上から鎌田正・米山寅太郎の両君に従来に引き続き御苦労を願う以外に道なしと考え、幾多の支障の有ることは承知の上で、情を尽くして両君に懇請した。然るところ旧誼を重んずる両君は我が志の存する所を察して快く承諾してくれた。うれしい。かくて拙著を永遠のものとなし、漢字文化の闡明に由って人類の幸福に裨補せんとする素願は、茲にその礎石を得たのである。後顧の憂いは無い。

 修訂といえば、その内容等についていうべきことは多々あろうが、今は言他事に及ばず、ただその核心のみを縷述して序とする。

     昭和五十三年六月四日

九十五歳翁  止軒  諸 橋 轍 次

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