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辞典・事典

諸橋轍次博士の序文

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 東洋の文化は、その大半が漢字漢語によって表現せられている。それは文芸に於ても思想に於ても、将た又道徳宗教に於ても皆然りである。それ故、漢字漢語の研究を外にして東洋の文化を云為することは不可能である。そこでこの宝庫を開く一つの方法として辞書の編著が考慮せられ、中国に於ても我が国に於ても早くその作品を見た。しかし実情から言えば、我が国従来の漢辞典は幾多の進歩があったとは言え、大体文字語彙の数が少なく、中国の辞典は康熙字典・佩文韻府等、大量のものはあるが、或るものは文字の解義だけで語彙はなく、或るものは語彙はあってもその解釈がないという状態である。これでは学界の要求を充たすわけには行かない。誰かこの欠を補ってくれる人はないものか、若し他にないとすれば、自分はその器ではないとしても進んでその任に当たってみよう、これが私の大漢和辞典の編著を企てた直接の動機である。

 この志を立てたのは、今から数えれば可なり古い事である。書肆と一応の契約を結んだのは昭和二年であるが、実際の着手は更に三四年以前に遡ると思う。爾来拮据精励、ともかくも昭和十八年には第一巻を発行した。続いて二巻三巻と刊行する予定であったが、二十年二月二十五日の劫火によって一切の資料を焼失した。半生の志業はあえなくも茲に烏有に帰したわけである。しかし当時は上下を挙げて国難に当って居った時であるから、別に悔みもせず、又落胆もしなかった。不幸中の幸とも言おうか、全巻一万五千頁の校正刷りが三部残って居った。そこで一部は手元に、一部は私の管理していた静嘉堂文庫に、他の一部は故岩崎小弥太男の好意によって甲州の山奥に蔵した。かくて再挙の時を待っていたが、時事は日に日に非なるものが重なった。そしてその年の八月十五日、遂に終戦の哀詔を拝することとなったのである。

 祖国が既にかかる一大変故に遭遇したのであるから、一箇の私の事業などはいかなる運命になっても仕方がないと一時は諦めたが、その後、時の経つにつれて又別の考えが起って来た。それは著者としての責任感である。私は既にこの書の刊行を天下に公約した。現に第一巻を購入した多くの人々もある。それらの人々に対して、たとえ幾多の困難があるにしても、このままに事業を中止することは許されない。且つ又、従来この書に対しては深い同情を寄せて下さった多くの人々もあった。それらの人々に対しても同様である。一面又、亡友その他嘗ての協力者に対する已み難い心情もあった。川又武君は事業の当初から殆ど二十年に亘り精根を尽してくれた人である。又、渡辺実一君・真下保爾君・佐々木新二郎君も同様、長きは十年、短きも五七年、終始事業のため精励してくれた。然るにこの四君は終戦と相前後して約一年の間に共々世を去った。これは事業完遂の行程に於て私の受けた最も傷心の事柄であった。この四人は共に大東文化学院の出身である。外にも同学院の出身者で私に協力してくれた人々は少なくない。この事業の前半は、それらの人々が中心となって分担したのである。従って私としては、これらの諸君の志を達成する意味に於ても、全巻の刊行を仕上げなければならぬ。

 かかる心情のもとに私は、自らを鼓舞し自らを鞭撻しつつ残稿の整理を始めたが、折も折、二十一年には私の右眼は全く失明した。左眼も殆ど文字を弁じ得ない状態に陥った。心はあせっても整理は遅々として進まない。しかしかかる間にも私は又、常に私を励まし私を助けてくれる数名の心友をもっていた。その一人は六十年来の旧友であり、この事業のためにも今日に至るまで二十数年助力してくれた近藤正治君であり、他は私の最も信頼している東京文理科大学出身の小林信明君・渡辺末吾君・鎌田正君・米山寅太郎君、その他の人々である。当時私は退官の身であり、且つこの書の刊行の見込みも立たなかった時である。それにも拘わらず上記の諸君は、いかなる困難があっても協力は惜しまない、せめて原稿だけは完全に整理して、やむなくば知己を後年に待とうとさえ言ってくれた。そして今、現に全力を尽して事に当って居るのである。

 かくて私も愈々再挙の決意を固めて居ったが、その矢先、甲州の疎開地から帰京した大修館の鈴木社長が、上京早々、これ又再挙の事を申し出た。そして言うには、自分は社運を賭してもこの事業を完遂する。それがためには、大学在学中の長男と仙台二高在学中の次男とは共に退学、これに当らしめる。三男も今は若いが、他日大学卒業の後にはこの事業に当らしめると。つまり一家の血肉を捧げて事業の完遂に当るというのである。私は深くその誠意と決意に心を動かされた。偶々井上巽軒博士の紹介によって、土橋八千太翁と相知るの機縁を得た。翁は時既に八十を超えた高齢であるに拘わらず、これ亦進んで整理に協力する事を申し出てくれた。爾来三四年、翁の好意によって補正を得た事も少なくないのである。

 さて愈々事を進めてみると、原稿整理の外に又色々の困難が起って来た。その主なるものの一つは、文字の製作である。この辞書には約五万の親文字を収めているが、以前に用いた活字は既述の如く全部焼失したので、これを改めて木版に彫り、更に活字を作るとすれば、少なくとも十年二十年の歳月を要する。更に現実の問題として、木版の製作者にその人を得る事が出来なかった。かかる困難の時に際して、ここに又幸にも一人の協力者を得た。それは写真植字の発明家である石井茂吉君である。同君は他に幾多の有利な事業を抱えて居る身ではあるが、この辞典の事業が永遠のものであるという観点から、自分一生の仕事として全力を挙げて協力しようと申し出てくれた。かくて終戦後又十年、上記幾多の人々の好意と協力とによって着々事務も進捗し、今日ここに本書刊行の運びとなったわけである。思えば私は身の不徳にも拘わらず、幸にも多くの知己を得た。私の事業は決して私一箇の事業ではない、蔭に隠れた幾百の人々の力の総合である。特に上記諸人の協力に負うの多い事は、茲に明記して感謝を捧げねばならぬ。

 事業完成までには尚お四年の歳月を要する。過去十年殆ど失明同様の状態にあった私は、幸今春、名医の手術によって隻眼を開いた。今後は一息の存する限り、本書の完成に努力しよう。そして芸林の榛莽を披き辞海の遺珠を拾うに力めよう。それが私の素志を貫く所以であり、且つ又学界に公約した義務を果す所以である。ただ何分にも微力の身であるから、成果の上には幾多の不足もあろう、欠点もあろう、それらについては江湖有識の諸君子の教正を仰ぎ得れば幸甚である。更に後来、五十年百年、継続して本辞書に手入れをする適当の学者が出て、完全なる漢和辞典を大成してくれる事ともなれば、独り私の望外の喜びであるのみならず、これこそ東洋文化宣揚のため学界の一大慶事であると思う。私は切にその事を希望して已まない。

昭和三十年十一月三日 文化の日

     遠人村舎に於て
諸 橋 轍 次 識す

 

※原文は旧かな・旧字体ですが、現代の読者の便を図って新かな・新字体としました。
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