大正14年(1925) | 大修館書店社長鈴木一平、諸橋轍次博士に、漢和辞典編纂を依頼。 | |
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昭和2年(1927) | 6月、著作者諸橋轍次、発行者大修館書店社長鈴木一平との間に出版に関する契約が成立。 | |
昭和4年(1929) | このころ、諸橋博士、漢和辞典編纂に本格的に着手。 | |
昭和6年(1931) | 編纂基礎作業の結果、当初の計画に収まらぬ膨大な分量になることが判明。著者・発行者が協議を重ねた末、今日の姿にみる大規模な漢和辞典の編纂刊行に踏み切る。その結果、収集した漢字は約6万字、収集した熟語は約120万語に及び、原稿は、22字×20行の特製原稿用紙約6万枚という膨大なものとなった。 | |
昭和8年(1933) | 本辞典の組版のため、東京市神田区錦町3丁目24番地に大修館書店付属特設組版工場(120坪)を新設。 | |
昭和9年(1934) | 『大漢和辞典』編纂所を東京市豊島区雑司ヶ谷より杉並区天沼1丁目263番地に移転し、原稿の整理、浄書を進める。この編纂所を「遠人村舎(えんじんそんしゃ)」と称した。その舎名は、陶淵明の「園田の居に帰る五首・其の一」の詩句「曖曖(あいあい)たり遠人の村」による。人里から遠く離れた村という原義に、人を遠ざけて編纂に専心する村舎の意味を寓した。7月、組版を開始。 | |
昭和12年(1937) | 7月、全原稿の棒組み(校正刷りの第1段階として、頁の形にレイアウトしないままに組んであるもの)を完了。その数、3万8591段(9648頁分)。 | |
昭和16年(1937) | 10月、このころまでに、増補原稿として、棒組み1万5436段(3859頁分)を追加。 | |
昭和17年(1942) | 刊行の準備にかかったが、本文用紙をはじめ、あらゆる資材が国家統制を受けていたため、製作資材調達に困難を極める。統制機関と種々折衝の結果、ようやく1万部発行の許可を受けた。 | |
昭和18年(1943) | 6月、東京会館において『大漢和辞典』出版記念会を催し、予約募集を発表。 | |
昭和19年(1944) | 諸橋博士、『大漢和辞典』編纂の功により、朝日文化賞を受賞。 | |
昭和20年(1945) | 2月25日、戦災により、本社の事務所、倉庫、特設付属工場の一切を消失。この時『大漢和辞典』は巻2を印刷中であったが、巻3以降の原版とともにすべてを消失した(巻1の印刷用原版となる紙型(しけい)のみ現存)。しかし、諸橋轍次博士は不慮に備え、全ページにわたる校正刷3部を諸方に分けて疎開していた。 |
昭和21年(1946) | この年より翌年にかけて、大修館書店社長鈴木、諸橋博士に『大漢和辞典』の再挙を申し入れる。諸橋博士は戦災を免れた校正刷をもとに原稿の再整備に着手。 | |
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昭和25年(1950) | 新しく編纂・刊行方法などについて協議が調い、出版契約を更新する。 | |
昭和26年(1951) | 『大漢和辞典』の木版活字による再挙は不可能と判断。種々検討の結果、原字製作を、写真植字の発明者、写真植字機研究所長石井茂吉氏に依頼。 | |
昭和28年(1953) | 本社内に写真植字部を新設。 | |
昭和29年(1954) | 10月、写真植字による組版を本社写真植字部および写真植字機研究所において開始。 | |
昭和30年(1955) | 2月、『大漢和辞典』巻1の印字を開始。 | |
昭和32年(1957) | 大修館書店社長鈴木一平、『大漢和辞典』の出版発行の努力により、菊池寛賞受賞。 | |
昭和35年(1960) | 5月25日、『索引』を刊行。これをもって『大漢和辞典』全13巻の刊行を完了。編纂開始以来実に35年の歳月と、延べ25万8000人の労力、及び巨額の経費が注ぎ込まれて、ここに『大漢和辞典』が完成した。 |
昭和39年(1964) | 『大漢和辞典』縮写版の編纂を開始。この機会に満3か年を費やして親字の解説を修正。 | |
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昭和40年(1965) | 11月、諸橋博士、文化勲章受章。これを記念し、『大漢和辞典』縮写版の予約募集を発表。 | |
昭和41年(1966) | 『大漢和辞典』縮写版巻1を刊行。 | |
昭和43年(1968) | 縮写版の刊行を完了。 | |
昭和49年(1974) | 4月、諸橋博士の意志に基づき、『大漢和辞典』の本格的な修訂作業を行うため、東洋学術研究所(所長鎌田正博士)を設立。 | |
昭和50年(1975) | 4月、『大漢和辞典』の出典用例の再調査カード作成開始。初版においては、昭和初期の資料的な制約により、出典用例に関して万全を期すことが難しかった。修訂にあたっては、その点を再整備することが大きな課題として掲げられた。約2年をかけて、約60万枚のカードを作成し、書名・作者別に分類。 | |
昭和52年(1977) | 4月、若手漢文研究者25名の協力の下、出典用例の再調査を開始。 | |
昭和53年(1978) | このころ、諸橋博士、鎌田・米山両先生に『大漢和辞典』の増補を遺嘱。 | |
昭和56年(1981) | 4月、調査カードに基づき、修訂版の原稿整理・作成に着手。 | |
昭和57年(1982) | 12月8日、諸橋轍次博士、老衰のため永眠。『大漢和辞典』の修訂作業は鎌田正・米山寅太郎の2人の高弟に遺嘱された。 | |
昭和58年(1983) | 『大漢和辞典』修訂版の予約募集を発表。 | |
昭和59年(1984) | 4月、『大漢和辞典』修訂版巻1を刊行。中国政府500部を予約購入。 | |
昭和60年(1985) | 12月末、修訂版の原稿作成が完了。 | |
昭和61年(1986) | 『大漢和辞典』修訂版全13巻完結。 |
昭和63年(1988) | 2月、『語彙索引』の編纂を開始。最新のコンピュータ処理を用いて2か年の歳月を費やして作成されたこの索引により、『大漢和辞典』の増補作業は、飛躍的な前進を見ることになった。 | |
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平成元年(1989) | 4月、新たに『語彙索引』を加えた『大漢和辞典』修訂第2版(新装普及版)の刊行を開始。 | |
平成2年(1990) | 5月、『大漢和辞典語彙索引』を刊行。『大漢和辞典』修訂第2版(新装普及版)が完結。 | |
平成7年(1995) | 3月、『大漢和辞典』増補のため、準備作業を始める。 | |
平成9年(1997) | 8月、執筆協力の十数名の尽力により、増補用の一次原稿がほぼ仕上がる。 | |
平成10年(1998) | 4月、増補原稿の組み入れを開始。 | |
平成12年(2000) | 4月、『大漢和辞典補巻』を刊行。これを加えて『大漢和辞典』修訂第2版(新装普及版)は全15巻となり、ここに4分の3世紀に及ぶ『大漢和辞典』の編纂作業が完結した。 |