『漢文教室』クラシックス
『漢文教室』12号(1954年5月発行)掲載
西周の没落を詩経から見る
○ずるい兎は のうのうと 有兎爰爰
正直雉は 網に入る 雉離於羅
わしが生れた そのころは 我生之初
ほんにのどかな 世じゃったが 尚無爲
年とるままに 数知れぬ 生之後
こんな厄(やく)にも あうものじゃ 逢此百羅
寝たまゝ 死んでしまいたい 尚寐無吪
(王風「兎爰」第一章)
(訳は、別にことわりのないものは、拙訳による。)
この詩は、中国で現存する最古の古典である詩経に載せられた、古代の民の叫びである。伝承によれば、周王朝十三代の王、平王宣臼の東遷(B.C.七二〇)の後、王朝の衰乱と、うち続く戦乱、生活の窮乏におののく民が、己の苦衷を訴えて作ったものであるという。詩経の中に、こうした類の苦悶の詩は相当に多く、そのほとんどが、西周末期の暴君である厲王・幽王、および、それに続く平王・桓王にかけての、衰えた周の世に対する叫びであると説明されている。いずれも、名も知れぬ朝士や、民間詩人によって歌い出されたものである。西周から東周にかけての世は、一口でいえば、あたかもこの詩で示されたように、末期というにもひとしい、苦難の時代であった。
いうまでもなく詩経は、儒教の大切な政教的経典で、周王朝政教の具体を、世の民の声から見るという意図のもとに、当時のいろいろな階層の詩(歌謡)を集めたものである。儒家は、この経典をたねにして、その中から周室為政の実際の姿を知り、いいにつけ、悪いにつけ、為政のあり方と、その結果との模式をここに見出し、後世への鑑戒にしようとする。私もここで、儒家の説法にならって、詩経の中の社会詩をとりあげ、西周崩壊の過程を考えつつ、かたわら、現世への一つの模式図を、ここに見出してみようと思う。
* *
周の厲王・幽王といえば、殷の紂王と共に、古来暴君の代表として挙げられている。史記の記録によると、厲王は私腹を肥やすのに汲々として、いっこうに民の生活を顧みず、くだらない側近の言を用いて、徳ある人の言はいれず、人民のいきどおりや、そしりに対してはその口を封じ、幽王に至っては、愛妾褒姒に溺愛して、国政などは放擲し、あけくれ愛妾のごきげんとりに腐心していた、と説明されている。こうした事柄は、概していえば、中国の場合、世を衰乱に導くときの定石と考えられていたことであって、史記の記録も、そうした定石論法から余り出たものではないが、しかし考えてみれば、一般的に、亡国にいたる過程には、きっとこうした因子のいくつかが実際にあるようで、従って、史記の西周没落に対する説明は、公式論であるとともに、事実の説明でもあったとみてよいであろう。詩経の詩に、その裏書きをするものがいくつかある。
○和しつ 誹(そし)りつ 小人の 潝々訿々
いとなみ 我は悲しめり 亦孔之哀
よきはかりごとには 謀之其臧
離(さか)り行き 則具是違
悪しきことには 謀之不臧
ともに寄る 則具是依
それがしわざを 見る時に 我視謀猶
そもいづ方に 行くならむ 伊于胡底
(小雅「小旻」第二章)
○あはれ ものいふあたはざる 哀哉不能言
口よりいまだいでざるに 匪舌是出
早くもわざはひ身におよぶ 維躬是瘁
よいかな へつらひの能言や 哿矣能言
巧言流るるごとくにて 巧言如流
身を安き地に居らしむる 俾躬處休
(小雅「雨無正」第七章)
○政(まつりごと)を親(みずか)らせねば 弗躬弗親
民びとは信(まこと)とせぬ 庶民弗信
問いもせず察(はか)りもせねば 弗問弗仕
君子(かみ)も勿罔(あざむ)きあなどろう 勿罔君子
夷(たいら)かに、正しきに(お)処り 式夷式已
小人(たみ)を殆(あやう)うさせてはならぬ 無小人殆
取るにも足らぬ縁(ゆかり)の者を 瑣々姻亜
膴(あつ)く用いてはならぬのだ 則無膴仕
(小雅「節南山」第四章)
(岩波新書・目加田誠氏「詩経」の訳による)
○人が持ってた 人有土田
田畑を奪い 女反有之
人が持ってた 人有民人
民 奪い 女覆奪之
罪ない者を 此宣無罪
ひっとらえ 女反收之
罪ある者は 彼宣有罪
かえって許す 女覆説之
哲(さかし)い人は 城(くに)なせど 哲夫成城
哲(さかし)い婦(おんな)は 城(くに)かたむける 哲婦傾城
(大雅「膽卬」第七章)
四番目の詩にある哲婦とは、褒姒を指すものであると信ぜられている。かんじんの君主が、愛妾に心をうばわれて、政治がおろそかになり、自分につごうのよい幇間、縁者たちを側にはべらせて、人材をしりぞけ、当路の者たちがぐるになって、私欲をほしいまゝにし、便乗者をはびこらせ、民の正論は弾圧統制し、苛歛誅求だけは容赦がないというのであっては、たまったものではない。人民たちは、こういうむちゃくちゃな世の中に生きてゆくためには、まるで蛇かとかげのように、地をはうよりしかたがない。そのなげきを歌っていう、
○天は高しと いひつつも 謂天葢高
背をくぐめずて 居るを得ず 不敢不局
地(つち)は厚しと いひつつも 謂地葢厚
ぬき足せずて 行くを得ず 不敢不蹐
民の痛恨(いたみ)の さけびごと 維號斯言
条理(ことはり)ありて 妄(まう)ならず 有倫有背
あはれ今の人 虺(はみ)のごと 哀今之人
とかげの如く 地をはひて行く 胡爲虺蜴
(小雅「正月」第四章)
いずこにあっても、亡国の第一原因は人災にある。
* *
西周の没落は、しかし、単に人災のみによってひき起されたものではなかったように思う。当時の中国は、相当長期にわたって、異常な天変、地異にわずらいされ、必然的に民の生活が窮乏におちいったということがあったと考えられる。史記に、幽王即位二年、西周の三川(涇・涓・洛)皆震い、ひつくし、岐山が崩れたという現象をのべ、王朝の積り積った暴政が、ついに天地陰陽の秩序を失わしめたのだとし、周室が天から見離されたことの実証として、この現象を説いているが、周の悪政うんぬんにかかわりなく、現実にそうした天変、地異が頻発したらしいことは、やはり詩経中の詩篇によってうかがえる。小雅の「正月」(第一章)には、ま夏に霜が降り、それに伴って民の流言がはびこったということをのべ、「十月之交」(第三章)には、時ならざるに、轟々と雷鳴して、たくさんの川の水がわき上り、山はくずれ、岸はたちまち谷となり、深い谷が逆に丘となったということを歌っており、大雅「雲漢」には、長期にわたる苛烈な旱魃をのべ、「火の赫々と燃えさかるが如く、身をおくべき所なし」(第四章)とか、「山川をひつくせり」(第五章)とか、戦乱をからくも生き残った「周の遺民に、既に身の全き者はない」(第三章)とか、激烈な口調で天変をなげいている。
さらに、人災と天災とを兼ねたものに、長期にわた異民族(主として南方の淮夷と北方の玁狁──後の匈奴──)侵攻と、その討伐とがあった。周は、夷王のころ(B.C八九四─八七九)から異民族の圧迫に悩まされ、次の厲王を経て、宣王の時(B.C八二七─七八二)になると、幕下に程伯林父とか、尹吉甫・召伯虎というような猛将がいて、周王朝の武威を四隣に轟かせたのであったが(そのころの詩が又詩経に載せられている)、完全に駆逐することはできずに、次の幽王期に至っている。ゆえにただでさえ苦しい民の生活は、さらに生活の綱とも頼むべき夫や父の征役にあって、一そう苦しくなり、救いがたいまでになったであろうことは想像できる。そのくるしみは、次のように歌われている。
○谷間に生ふる蓷の 中谷有蓷
乾きしほれしあはれさよ 蓷其乾矣
夫に別れし女には 有女仳離
嘆きのみこそはてなけれ 嘅其嘆矣
嘆きのみこそはてなきも 嘅其嘆矣
艱難に遭へる夫ゆゑに 遇人之艱難矣
(王風「中谷有嘆」第一章)
(丁子屋書店刊、目加田誠氏「詩経訳注篇第一」の訳による)
○なべての草は 黄に枯れて 何艸不黄
行軍(たび)続けざる 日とてなく 何日不行
出でて四方(よも)の 経営(いとなみ)に 何人不將
従はざる者 誰かある 経営四方
(第一章)
なべての草は 黒く朽ち 何艸不玄
鰥(やもめ)ならざる 者はなし 何人不矜
あはれ役立(えだ)ちの 吾輩(わなみ)らは 哀我征夫
民にあらずと なすなるか 濁爲匪民
(第二章)
(小雅「何艸不黄」)
○「なうぜんかつら」の 苕之華
黄なる色 芸其黄矣
心うれひに 心之憂矣
いたむかな 維其傷矣
(第一章)
「なうぜんかつら」の 苕之華
葉は青し 其葉青青
かくあるを知らば 知我如此
生まれざらまし 不如無生
(第二章)
牝(め)羊やせて 首(かしら)のみ大いに 牂羊墳首
「うけ」に魚(うを)なく 星影三つ 三星在罶
わづかに生くべき 食はあれ 人可以食
飽くこといかで 望み得む 鮮可以飽
(第三章)
(小雅「苕之華」)
終りの詩は、まさしく、どん底の悲嘆である。西周没落の根底には、一面、どうにもならぬ変事も横たわっていたのである。
× ×
こうして世の中は、どうにも救いようがない末期症状を呈する。従って、才者は身の安全をはかって、どんどん王朝から逃れ去ろうとする。小雅「雨無正」では、そうして去ろうとする支配階層の一人を、きまじめな仲間の一人がそしると、彼は血涙をしぼって哀願する、それを又罵って、その昔、王朝の盛時には、進んで都に家をかまえて住みつきながら、今になって家がないからと遁辞をいって逃げ出すのはあんまりだ、と歌っている(第七章)。大雅の「民労」は、恐らくこういうときに、なお王者の覚醒をうながしてやまない忠誠の士の叫びであろう。
○民のくるしみ はなはだし 民亦労止
ねがはくは 安んぜしむべし 汔可小康
この中国(くにうち)を いつくしみ 恵此中國
四方国人(よもくにびと)を 安んぜよ 以綏四方
いつはりを ゆるすことなく 無縦詭隨
よからぬ輩(やから) つつしましめ 以謹無良
それ暴虐の 天明を 式遏宼虐
つひぞ畏れざる者を まつろはしめ 僣不畏明
遠きを柔(やす)んじ 近きをなづけ 柔遠能邇
わが王国を 堅むべし 以定我王
(大雅「民労」第一章)
何とかこれまで、窮乏に耐えていた民たちも、もうどうにも耐えられずに、住みなれた土地を棄て、少しでも安住の地を求めて、さまよい歩く。小雅の「緜蠻」は、そういう人たちが放浪してゆく途中、飢え、つかれて、行人に救いを求める詩であるように思われる。だが、逃れようにも、逃れていくところもない。小雅「節南山」にいう、
○四つの牡(め)馬に うち乗るに 駕彼四牡
四つ馬 頸は太くとも 四牡項領
見渡す四方(よも)は せばまりて 我瞻四方
車を馳せむ 方もなし 蹙々靡所騁
(小雅「節南山」第七章)
ついに人民たちは、父母が自分を生むのに、どうしてこんな苦しい時に出あわさせたのか、もし、もうちょっと先にか、後にかしてくれたなら、こんなにくるしまなくてもすむのに(小雅「正月」二章)と嘆き、
○秋日ざし きびしくも 秋日淒々
百草は みな病めり 百卉其腓
乱れ散る 憂ひに病むに 亂離瘼矣
いづ方に ゆきてたよらむ 奚其適歸
(二章)
鷲ならず はた鳶ならねば 匪鶉匪鳶
天つ空 かけりもえせず 翰飛戻天
「ふか」ならず はた「しび」ならねば 匪鱣匪鮪
淵に去り ひそむもえせず 潛逃于淵
(七章)
山みるに「わらび」は生ひて 山有蕨薇
沢みるに「くこ」は生ひたり ■有杞桋
せめてわれ この歌をもて 君子作歌
哀を 人に告げまし 維以告哀
(小雅「四月」)(八章)
*■は「溼」字と「つくり」は同じで、「さんずい」ではなく「こざとへん」
と、のろっても、喞っても、どうにもならぬことながら、わずかに悲嘆に泣くことによって、自らのなぐさめを見出そうとする。
こうして、文、武の聖君主、周公旦、召公奭などの賢臣たちの創業によって、みごとに形成された周王朝も、四百年の歴史空しく、衰乱に乗ずる新勢力の擡頭を前に、あえなく瓦壊し、その都を東遷させて、以後わずかに王城附近の地によって、余喘を保つにすぎなくなってしまった。詩人は嘆いていう、
○そのかみ先王の命受けしときは 昔先王受命
召公の如き賢者ありて 有如召公
日々国開くこと百里なりしに 日辟國百里
今や国せばまり行く日に百里 今也日蹙國百里
あはれあはれ 於乎哀哉
今の人 維今之人
昔を思ふ者はなし 不尚有舊
(大雅「召旻」七章)
* *
今から二千数百年もの以前の、中国の庶民の絶叫が、今日にいたるも、なおどくどくと血がかよい、よみがえってくるものがあるということには、いささか考えさせられる。それほど、庶民の生活感情は、大昔も今も大して変っていないし、社会環境も又変えられていないというのであろうか。こうした作品の、超時代的な生新さをよろこぶべきか、もしくは、二千年以上も経て、なお変らぬ人間の愚かさを嘆くべきか。「維今之人 不尚有舊」。詩人の嘆きは、率直にして痛烈である。
(C) Suzuki Emiko, 2016
当連載について
『漢文教室』は、1952(昭和27)年5月に創刊されました。
漢文教育振興の気運が高まっていた当時、小社では諸橋轍次先生を編集顧問に、中西清・鎌田正・大木春基・鈴木修次・小林信明・尾関富太郎・牛島徳次の先生方を編集委員とした検定教科書『高等漢文』を発行、雑誌『漢文教室』もこの機に創刊されました。
漢文教育のありかたについて、また発行教科書について、「理論と実際の両面から活発なる研究を試み、漢文教育の真のありかたを研究する」(諸橋轍次先生「発刊の辞」)ことを目的としてスタートしたこの雑誌は、以来、多くの先生方のご指導・ご支援により、漢文教育界の動向及び最新の教材研究、授業実践等を、全国の先生方にお届けしております。
当「漢字文化資料館」の「『漢文教室』クラシックス」では、現代の読者の皆様には目に触れる機会の少ない『漢文教室』の古い号から、掲載論考を再掲してご紹介します。
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