当館では、『大漢和辞典』を始めとする漢和辞典を発行する大修館書店が、漢字や漢詩・漢文などに関するさまざまな情報を提供していきます。

辞典・事典

大漢和辞典出版後記

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 私が精魂を傾けた大漢和辞典全十三巻の出版は、この索引をもって全巻完刊の運びとなった。過ぐる昭和三十年の春、刊行予定を発表以来四年六ヶ月、なんらの遅滞もなく今日全巻完結の公約を果し得たことは、一に各界諸士の御支援の賜に外ならない。しかしながら、一方この出版は一個人の力によって企画され実行され成就されたものであって、かくも厖大にして貴重な文献として後世に残しうる日を現実に迎え得ようとは、私自身にも夢のような気がする。発行責任者としての喜びは御推察いただけると思う。

 思えば、私の生涯は総べてこの大事業に終始した。私は千葉県木更津に生まれ、志をたてて十六歳の時、学生参考書を出版する東京神田表神保町七番地、修学堂辻本末吉氏方に入店した。所謂出版屋小僧として修業、種々の体験をしつつ、理想に燃えて、三十二歳(大正七年九月)、東京神田錦町一丁目二番地に大修館書店を独立創業した。

 大正から昭和の初期に於ける出版界の情勢として、一国の文化を代表するほどの良書の出版は誠に少ない有様であった。当時(三十八歳)私は「いやしくも出版は天下の公器である、一国文化の水準とその全貌を示す出版物を刊行せねばならぬ。これこそ出版業者の果さねばならぬ責務である。」と固く信じ、先ず生命力の永い良い辞書の出版を考えた。そこで私は、第一に、実際に役立つ便利なもの(検索上の不正確を正す)、第二に、決して他人に真似の出来ないもの(正確で他より優れた特色を有するもの)、第三に、後世まで残るもの、という三つのことを考え合せ、一冊ものの漢和辞典の出版を思い立った。

 たまたま東京高等師範学校附属中学の水野彌作先生の御紹介で、諸橋轍次先生のことを知った。ひそかに調べてみると、先生はまだ他社から漢和辞典を出しておられない。私は“一著者一出版社主義”ということで、早速先生の御宅を訪ね、辞書出版の企画を交渉した。先生も数年前より正確な漢和辞書の必要を痛感されていたということであったが、容易に承諾して下さらなかった。先生御自身学校の御仕事もあり、私も昼間は忙しかったので、伺うのはいつも夜分になった。伺うたびに親切に扱って下され、私の話を聞かれるが、交渉は成立しなかった。一年三ヶ月余、根気良く足を運んだ結果、漸く御承諾を得、昭和二年、漢和辞典(一冊もの)出版に関する正式の取り極めを結んだ。

 ところが、編纂に着手して四年を経た時、先生から御相談を受け、広汎な古今和漢の典籍を渉猟することによって非常に大部なものになる旨申し伝えられ、その完成も何年掛るものか皆目解らぬ状態が生じた。すでに編集費も相当に投入して来たが、更に今後何程のものを注入すればよいか見当もつかなかった。私は、はじめてその時、国語辞典には大きいものがあるが、漢和辞典にはそれに匹敵するもののないわけがわかった。そしてそれらに優る漢和辞典を出版することの意義を改めて認識したのである。そこでただちに先生に、御考え通りの方針で、完全な大辞典を作るよう御願いした。そのような辞書の出版に依って、今後その辞書が一揃いでも世の中に残る限り、私自身の生命が形を変えて永遠に持続するのだと思うに至り、自らを励まし、私の資力と体力の一切を注入して、この事業完遂に一生を捧げようと決心した。

 さて着々と編纂が進むに従い、出版技術上種々の問題が出て来た。特に本事業は百年の大業であることを思うと、活字の製造と整版についても優秀なものを作らねばならない。それらを満たす為に、東京神田錦町三丁目二十六番地に建坪六十坪二階建の整版専門の付属工場を特設し、小林康麿君を整版工場長に迎え、私の片腕となって協力してくれることを依頼した。特設工場を設置するに当り、良書の刊行には著者が思う存分内容を推敲し、研鑽する必要があろう、それには原版全巻を組置きとし、一旦組版した部分でも幾度も自由に訂正し得るようにして置こうという方針をたてた。そして全巻を通じて各文字・関係語彙・熟語の相互間に於ける検索上の反照を正確に把握するため、ここに一万五千頁分組置きという、恐らく出版界未曾有の難業を敢て決行することとした。

 組版進行に当っての最難関は活字の問題であった。当時、使用されていた活字の漢字数は僅かに八千字前後であり、しかもその大部分は、辞書活字としては殆んど使用出来ないものであった。即ち辞書活字は一点一画たりともゆるがせに出来ないばかりでなく、更に使用活字は三号(親文字・篆文用)・五号・九ポ・八ポ・七ポ・六ポとあり、これを満たす為には使用文字は各種ごとに、総べて木版に新しく彫刻する必要に迫られた。当時一流の木版彫刻師数十名を動員してこの難業に取組んだが、数十万本の数量を彫り上げるのに数年の歳月を要した。

 以上の外、組版諸道具に於ても種々の困難を経て、とも角も昭和十二年七月に一応全巻の整版(棒組版)は出来たが、日華事変勃発に依る資材関係の逼迫は日を追ってきびしくなり、あらゆる創意と工夫を凝らし、全収入の資金を注入して、その整備進行に全力を尽した。しかるに、昭和十六年十二月、太平洋戦争勃発するや、事態は更に深刻になった。用紙は総べて国家の統制機関によって規制され、戦力に直接必要欠くべからざるものに限られた。当時、この辞書の出版は、直接戦力に関係ないという理由で発行に対する審議が後回しにされ、いつ許可になるものか皆目不明であった。先生と私は、関係要路に足を運び辞を低くして、本辞典発行に対する承認方を懇請し歩いた。その甲斐あってか、やっと一万部発行の承認を受け、用紙購入配給切符の交付を受けたが、さて上等の用紙を抄造する所がない。百方手を尽し、王子製紙十条工場に於てその抄造を引受けてもらった。用紙がそのような状態で、他の資材は更に欠乏がきびしく、表紙用の皮革類は最も統制が厳重で、書籍の使用には絶対認められていなかった。造本の堅牢を思い、あらゆる代替品を考え、数十回試作を試み、検討に検討を加えた結果、玉繭を原料とした背革の代替品を考案しこれを使用した。

 かくして幾つかの難事を乗り越え、最善の限りを尽し、永年苦心したこの大業が、漸く陽の目を仰ぐ日が訪れた。昭和十八年九月十日、私は多大の期待を寄せ、誇りをもって第一巻を発行した。

 その後戦局はますます拡大され、国家統制は日を追って強化されて来た。私共の出版業界も、その影響を受け企業整備の実施が着々と進み、出版会社の企業の整理、合併が国家統制機関から命じられた。当時、ある七社と合同の話があったが、最後の話合いで合同が出来なくなりそのままになった。しかし、統制機関としては私の所一社のため計画の完了を見ぬことは全く困るということで、出版修業時代から親しくしていた研究社の小酒井五一郎氏の御好意により、名目上合体の形式が統制機関関係者の仲立ちで行われた。いかに時世とはいえ、精魂を傾け、人生の殆どを捧げて来たこの事業が、今後自分の名前で発行出来ぬことを思うと、もはや生き抜く気魄もなく、総べてが体内から消え去る思いであり、全く失望をした。

 さて、戦局は愈々激しさを加え、戦火は遂に本土を掩うに至った。昭和二十年二月二十五日の大空襲は、一瞬の内に総べてを焼き払ったのである。住みなれた町も家も、星霜二十年に及ぶ私の労苦も、ことごとく灰燼に帰し、組み置き原版(組版鉛地金約二万五千貫)ならびに第二巻印刷途上に於ける資材の一切が焦土と化した。この時私は、諸橋先生に対しては誠に申しわけない次第であったが、企業整備のため今後自分の名前で出版発行出来ぬものであるならば、総べて焼き払われてむしろホットしたと言うか、実は内心清々した気持になった。

 戦火が収まるとともに、先生は戦災を免れたお手元の校正刷りに朱を入れながら、私の再起を待っておられた。私は出版紙型及び資材の一切を焼失したが、幸に小さな鉄筋倉庫に入れてあった英語辞書の原版と英語会話書の原本が焼失を免れたことと、戦後いち早く新検定制実施による検定教科書を手掛けたことで、割合い早く立直ることが出来た。更に戦前から私の許で働いてくれている川上市郎君が、時に私の手となり足となって活躍し、復興に寄与してくれた。かくして出版の自由時代を迎えると、私は再び大望実現の情熱に燃えた。(この事は諸橋先生及び第一巻購入の方々に対する当然の義務であると考えた。)

 戦後間もなく、中野の単式印刷に製作面の協力方を交渉したが、あまりにも尨大な事業のため交渉はみのらなかった。しからば戦災前の如く活字製版にと思いを致し、活字母型の整備に着手したが、戦争の被害は大きな変化を与え、又時の流れと共に木版彫刻師の衰微甚だしく、容易に製版関係の態勢が整わなかった。その頃、私の最大の協力者であった小林康麿君が長逝されたことは誠に痛恨の極みであった。偶々戦前から知遇のあった古坂正勝君の紹介によって、写真植字機研究所の石井茂吉氏の存在を知った。石井茂吉氏は私と同年輩の人で、勿論自分の体力、将来の見通し等を考慮しておられ、最終的に文字の製作契約を行うまで一年三ヶ月の交渉期間を経て、漸くその承諾を得た。

 諸般の出版態勢を整えると共に、私はこの事業の完全なる遂行は私以外にはなしえないが、若し事業半ばに於て死亡し、この出版に支障を来すならば、諸橋先生ならびに今日まで御声援を頂いてきた方々に相済まぬという責任を痛感し、本来各方面に進むべく勉学中であった長男敏夫を、当時東京慈恵会医科大学から退学させて経営に参加させ、次男啓介は、旧制第二高等学校を卒業し、東京大学に入学準備中のものを断念させて写真植字を習得、技術を身につけさせ、更に三男荘夫の東京商科大学卒業を待って経理の実務につかせ、私亡き後でも、私の分身が必らずこの事業をなし遂げられるという万全の態勢をとり、父子二代の運命を賭けてやり抜く決意を固め、それを実行した。戦災を免れたのは校正刷りの原稿のみ、あとは総べて新規に設営せねばならぬものばかり、私はこの事業の完成のみを志向し、あらゆる労苦に耐え、働き抜き、他の出版物から生み出される剰余の一切を投入して、再出版の一日も早からんことを念じた。

 戦後の印行は、写真植字機によって進めることに決着したので、先ず私は社屋内に写真植字機による印字設備を行い、これに従事する社員を特別に養成して事にあたらしめた。更に私は関東大震災、今回の戦災と二回焼け出された苦い体験から、事業再開に当っては、原稿及び印字設備一切を火災から守るため、鉄筋コンクリート三階建の社屋を新築し、総べてのものをその内に収容した。

 これら準備一切の整備を終え、緻密な計画を練りに練って、完全なる見通しのもとに、昭和三十年の春、全巻の刊行計画を発表した。幸に、資材・製版・印刷・造本関係に於て、それぞれ当代一流の方々が率先して期日通りの発行に協力されたことは、私にとって最大の力であった。

 昭和三十年文化の日、第一巻を発行してからここに四年余、今日生命に別条もなく、全十三巻を自分の手で完全に成し得て、感激正に無量である。学歴もなく才能も恵まれぬ私に、今日このような機会を与えて下さった諸橋先生及び編纂に関係された諸先生、事務遂行に協力を惜しまなかった関係各位、不断に激励を与えられた先輩諸士に対し、深甚なる謝意を表する。

 この辞典には、約三十五ヶ年間に亘る私の魂が打ち込んである。私存命中に再び版を新たにすることは出来まい。将来補筆出版の必要が生じた際は、私の子孫が責任をもって、大修館書店の名前のもとに必らず遂行するよう申し置いて行く。この辞典が世の中に一揃いででも残って活用される限り、諸橋先生と共に私の生命が永遠に続くものと確信して、ここに出版後記とする。

 最後に一言申しおきたいことがある。戦災によって私の再起を不可能と見て他より出版の交渉があった時、諸橋先生は泰然として動ぜず、この出版は私以外には完成できないことを信じ、その申し出を退けられた。そればかりではなく、私を鞭撻くだされ遂に出版完成にまでこぎつけさせてくださったことに対し、心から感謝申し上げている。

 次に私事に亘って恐縮であるが、この夢の如き事業が完成した蔭の力として妻(とき)の献身と三人の子供たち(長男敏夫、次男啓介、三男荘夫)の協力について申し述べることをお許しいただきたい。妻が十人の子女を養育するかたわら、終始私と労苦を共に励ましてくれたこと、及び三人の子供が父のために、それぞれの進むべき道を断念して、この出版完成に挙って参加してくれたことは、私を最も力づけるものであった。また、永年に亘り川上市郎君が影の形に添う如く私を助けてくれたこと、その他全社員が一丸となってすべての力を結集したことも特筆すべきことである。私はこの他にも数多くの方々から温い御指導と御援助をいただいて、今日の栄光を担うことができた。顧みて誠に幸福の一語に尽きると思う。

 終りに生涯を賭けたこの辞典に私の生命を託して、死後はその旨を釈諡とすることを遺言するものである。

     昭和三十五年五月二十五日

鈴 木 一 平 識す

 

※この「編集後記」は、『大漢和辞典』索引巻の末尾に掲載されているものです。
※原文は旧字体ですが、現代の読者の便を図って新字体としました。