漢文世界のいきものたち
「推敲」は驢馬の背で
前回の宋代の詩人梅尭臣が愛猫の死を悼む詩の中で、世の人は重いものを運べる馬や驢馬の方が猫よりも価値があるなどと言うのだ、と憤っていることをご紹介しました。今回は、その馬と驢馬が主役です。
「推敲」は現代では文章をよくするために表現を練ることを主に意味しますが、基づく故事は、詩に関わるできごとです。出典は『唐詩紀事』という唐代の詩人たちのエピソードを集めた書籍で、史実かどうかはいささか疑問符がつくところながら、中唐の韓愈(七六八年から八二六年)が賈島(七七九年から八四三年)の出会いのエピソードの中に「推敲」の由来はあります。
賈島が長安に上京してきたばかりのころ、詩を作りながら驢馬で長安の町中を移動中に、「僧推月下門」という詩句を思いつきました。しかし、「推(おす)」と「敲(たたく)」ではどちらがいいだろうかと迷いが生じ、考えているうちに賈島の乗った驢馬は長安の長官韓愈たち一行の列に突っ込んでしまったのでした。賈島は当時、無職の身であり、悪気がなかったとはいえ、都の長官の列にぶつかるなど許されることではありません。しかし韓愈は政治家であるとともに学者であり文学者でもあったので、賈島の事情を聴き、「敲」がよいと助言し、二人はその後轡[ひ]を並べて文学談義に花を咲かせたのでした。
この故事の結末部分は原文では「遂に轡を並べて詩を論ずること之を久しくす」となっています。「轡」とは馬や驢馬の手綱のことで、それを並べるということですから、馬や驢馬などが主を乗せて並んでいる様子を言うわけです。彼らが何に乗っていたかを本文から見てみましょう。賈島は「驢に騎り詩を賦す」、驢馬に乗って詩を作っていたと本文中に書かれています。では韓愈は何に乗っていたのでしょうか。
まず、非常に大きなヒントとなるのが、「杜子春伝」の以下の部分です。
馬を去りて驢とし、驢を去りて徒[かち]す。(去馬而驢、去驢而徒。)
「杜子春伝」は唐代伝奇で、芥川龍之介「杜子春」の元ネタとなった作品でもあります。没落し、お金もなく途方に暮れていた杜子春は、不思議な老人からお金をもらって大金持ちにしてもらったのですが、贅沢を繰り返してあっという間にお金を使い果たしてしまう、という場面が物語の前半に出てきます。贅沢のしすぎでどんどん貧しくなっていく杜子春は、乗っていた馬を売り、驢馬に乗り換え、さらには驢馬も売って、徒歩で移動するようになったわけです。この経済状況の変化の描き方から、驢馬に比べて馬はとても高価なものであっただろうということがわかります。
あるいは唐代伝奇の「任氏伝」では、韋崟というお金持ちと、鄭六という貧しいいとことが一緒に遊びに出掛けたものの、いったん別々の方向へと向かうという場面を「崟は白馬に乗りて東し、鄭子は驢に乗りて南す(崟乗白馬而東、鄭子乗驢而南)」と表現しています。お金持ちの韋崟は白馬に乗って東に向かい、貧しい鄭六は驢馬に乗って南に向かったということですから、やはり驢馬は貧しい人が乗り、お金持ちは馬に乗ることが確認できます。ここでわざわざ白馬としたのは、美しく珍しい馬に乗っている韋崟の豊かさを読者に印象付ける狙いがあるのでしょう。
物語の終盤、鄭六とその愛人の任氏が出かける場面では、貧しい鄭六は相変わらず驢馬に乗っていますが、韋崟が惚れ込んで何もかも世話している美女任氏は、馬に乗っていたと書かれています(任氏乗馬居其前、鄭子乗驢居其後)。唐代の人たちは、乗り物が馬なのか驢馬なのかについての言及で、その登場人物の経済的、社会的なあり方をより具体的にイメージできたのでしょう。
「任氏伝」には馬の売買で大金を稼ぐ場面もあります。また、故事成語「先づ隗より始めよ」の由来は、よく走る馬を買うために多額の投資をするという例え話です。馬は高価なものであるだけでなく、いい馬を買うためには金に糸目をつけない人もいたのでしょう。さらには韓愈「雑説」には、「伯楽」の故事を挙げて、いい馬を育てることの難しさと重要さが語られています。生まれつきの能力だけでなく、飼育にも意識を向けるほどに、名馬というものが重視されていたと言えそうです。
しかし同じ騎乗用の家畜であっても、こういった語られ方をするのは馬ばかりで、高級な驢馬を買うために大金を支払うというような話はあまり見かけないように思います。驢馬が大きく取り上げられる故事としては柳宗元「黔之驢」があります。ここでは驢馬は自分の力量をわきまえなかったばかりに、虎に殺されてしまいます。どちらかといえば驢馬にはどこか間抜けな印象があるようです。
ここで「推敲」の話に戻りましょう。賈島が驢馬に乗っていたのは、賈島の経済的、社会的な位置を読者に示すものとなります。驢馬に乗って登場した賈島は、この時点では無職で生活が苦しいのだなとわかるわけです。では韓愈の乗り物はといえば、もうおわかりですね。経済的にも社会的にも安定した立場である都の長官韓愈は驢馬に乗っているはずはありません。馬を連ねて都の大通りを行く韓愈に、一頭の驢馬が突っ込んでしまう、しかし韓愈はそれを許し、あろうことか彼の立派な馬を、賈島の驢馬と並べるのです。なぜかといえば、韓愈は賈島の文学的な才能が気に入り、語り合いたいと願ったからでしょう。
この故事は、賈島が長安に来た時期と、韓愈が長官をやっていた時期がずれるため、史実ではないと考えるのが妥当です。でも、この故事がまことしやかに語られてきたのは、文学を愛した賈島と、その賈島の才能を見出した韓愈の出会いの物語として「そういうこともあったのかもしれないな」と思われてきたからでしょう。そのリアリティを彩る小道具として、驢馬という動物がさりげなく、しかし的確に配置されているのです。
『唐詩紀事』巻四十「賈島」
原文
島赴挙至京、騎驢賦詩、得「僧推月下門」之句。欲改「推」作「敲」、引手作推敲之勢、未決。不覚衝大尹韓愈。乃具言。愈曰「敲字佳矣。」遂並轡論詩久之。
書き下し文
島 挙に赴きて京に至り、驢に騎りて詩を賦し、「僧は推す月下の門」句を得。「推」を改めて「敲」と作[な]さんと欲し、手を引きて推敲の勢を作り、未だ決せず。覚えずして大尹[たいいん]韓愈に衝[あた]る。乃ち具[つぶさ]に言ふ。愈曰はく、「敲字佳し。」と。遂に轡を並べて詩を論ずること之を久しくす。
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