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「腟」「膣」はどちらが「正しい」のか

 前回は、江戸時代にどのように「腟」と「膣」の字が使われ始めたかというのをみてきた。女性生殖器として使われ始めたのは「腟」が先で、読みが「チツ」に変わったものの、「腟」が多数派、「膣」は少数派であった。しかし、時代がくだって現代の表外漢字字体表では、印刷標準字体に「膣」が選ばれていて、「標準」が逆転しているように見える。印刷の字体と医学用語とで標準あるいは「正しい」とされる字が異なることは不思議だ。この間に何が起こったのだろうか。

 明治時代になると、他の書籍と同様に、医学書の出版にも変化が起こり、木版印刷から活版印刷が主流になってくる。活版印刷では活字を並べて印刷するので、その活字にどの字が備え付けられているかという問題がある。モルモットの回で登場した荘司秋白の1926年の文章によると、「腟」の活字はあっても「膣」の活字を備え付けていないという状況があって、「膣」表記を要求されても「腟」の活字しか用意できない事態があったようだ。これはなかなか興味深い。「腟」と「膣」どちらを使うか悩んだところで、技術的なところで制約があったかもしれないからだ。明治期を含む活字字形をみる資料として『明朝体活字字形一覧』というものがあり、その表のうち「腟」と「膣」の部分を抜き出すと下の通りだった(異なるページにある「腟」「膣」の字のところだけ抜粋)。縦方向に見ると、さまざまな活字セットが並んでいるわけだが、「腟」「膣」の二字ともそろっているものもあれば、たしかに「腟」か「膣」どちらかだけのものもある。

『明朝体活字字形一覧』

 筆者は活字について詳しくないので、この表だけで荘司秋白の記述の裏付けにできるか自信がない。そこで実際の医学書でこういった現象を観察できないかと思って探してみると、確かにそれらしきものがあった。
 1888年(明治21年)の『産科攬要[らんよう]』という産科学書で、見出し部分は楷書体活字、本文は明朝体活字になっている。よくみると、見出しは「腟」、本文は「膣」になっている。ほかの箇所でもやはり見出しの楷書体活字は「腟」、本文の明朝体活字は「膣」だった。見出しと本文で字を変える意味はないので、これは活字の制約によるものなのだろう。庄司の文章は昭和初期のものなので、明治から大正を経て昭和に入っても、この活字の問題があったということがわかる。

『産科攬要』p.76 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

 活字の制約があったと思われる時期、特に明治時代には、医学書の中で「膣」が使われる頻度が今よりもかなり多い。「腟」のみ、もしくは「腟」「膣」が混在しているのが優勢ではあるが、阿保任太『産科治法』(1892年)、佐藤勤也『実用産科学』(1901年)など、「膣」だけを使って書かれた医学書もあった。『新医学大字典』(1902年)、『羅独和訳医学字典』(1906年)など一部の対訳医学用語辞典では、「腟」ではなく「膣」を見出し語として掲出するものもあった。
 活字の話を先にしたのは、こうした「膣」の増加をみたときに、前回の緒方洪庵の流れで各著者が意識的に「膣」を選んでいるのか、活字がないのでしかたなく「膣」表記になったのか、どちらかを判断しにくいということを言いたかったからだ。とはいえ、庄司の証言からは「膣」表記を求める声があったということであり、今よりも「膣」表記の需要はきっと多かったのだろう。

 明治時代の後半になると分野ごとの医学用語集、医学用語辞典が作られるようになる。解剖学の用語集のさきがけである『解剖学名彙』(1905年)や、産婦人科領域初の本格的用語集である『産科学婦人科学学術用語彙』(1936年)では「腟」の字が選ばれた。実は、学会が関与する医学用語集では、それ以降も、時代や分野を問わず、一貫して使用されているのは「膣」ではなく、「腟」なのだ。おそらくその理由は大槻玄沢が最初に「腟」の字を使ったからだろう。現代では、より画数が少ないほうを選ぶ(『日本医学会医学用語辞典』の凡例)という理由付けもあるようだ。
 一方で、2000年の表外漢字字体表では「膣」が印刷標準字体になっている。印刷標準字体というのは、基本的に清代の『康煕字典』の正字体、あるいはそこからつながる明治以降の活字字体(「いわゆる康煕字典体」と呼ばれる)によるとされている。しかし、「腟」や「膣」が女性生殖器の名称として使われるようになるのは『康煕字典』より後のことだ。しかも『康煕字典』にはこの二つの字の関係性は書かれていない。前回、中国の字書の引き比べをしたが、この両者を異体字として扱うのは『字彙』を補足した『字彙補』だけだった。日本ではそれを引用したと思しき江戸時代の『増続大広益会玉篇大全』の「膣」の字に「腟に同じ」とあるくらいで、両者の関係性の根拠がしっかりしているわけでもない。また、印刷標準字体の目安の一つとなる明朝体の活字字形でも、上の表で見たように「腟」と「膣」どちらかが圧倒的な多数派というわけでもない。直井靖氏によると、表外漢字字体表が掲げる「いわゆる康煕字典体」とは、現代日本の字書類が掲げる規範的な字体に近いものであるという。「膣」「腟」については、国語辞典類を列挙し、「膣」字形が多く掲出されることを示していた。
 とすると、「腟」「膣」のずれの謎を解くカギは、辞書の記述にあるのかもしれない、と筆者は考えた。そして調べてみると、どうやら中国の辞書の影響がありそうだということがわかってきた。

 順をおって説明しよう。
 江戸時代の日本で「腟」という医学用語ができて、明治時代には「腟」以外に「膣」もそこそこ使われている状態であった。そのころ清朝末期の中国でも、宣教師などが西洋医学の用語を中国語に翻訳していた。そこでは「陰道」という訳語が使われていて(現代も「陰道」と呼ばれている)、「腟」や「膣」の医学用語としての意味が伝わったのは、それ以降のこととなる。日本の医学用語が中国に伝わる橋渡しになったのは、中国から日本へ留学する留日学生たちだ。留日学生は当時日本で出版された医学書を持ち帰って中国語訳して出版している。なかでも「丁氏医学叢書」という訳書シリーズがあり、その元となった日本語医学書をみると、「膣」がつかわれているものがあった。ちなみに「丁氏」とは丁福保のことで、中国語学を修めた方ならわかるかもしれないが、『説文解字』の注釈集である『説文解字詁林』を編纂した人物だ。話を戻すと、ほかに、留日学生によって作られた『新爾雅』(1903年)という用語集では、「腟」の字が使われていた。このように明治後期(清朝末期)には、「腟」「膣」の両方の字が中国に伝わっていたようだ。ここで注意が必要なのは、明治時代は活字の制約もあってか「膣」の頻度がそれ以外の時代と比べて多く、対訳辞書類にも「膣」が使われていたという事実だ。大槻玄沢が作ったという経緯までは知らないと思われる留日学生からしたら、「腟」「膣」のどちらが「正統」か判断がつきにくかったのではなかろうか。

 1915年に中国で作られた『辞源』という字書は、日本の新語を取り入れていたことが、陳力衛氏により指摘されている。その『辞源』では「膣」に生殖器の意味を載せ、「腟」の字は親字として掲出すらされていなかった。この扱いの差の理由は定かではないが、明治期に「膣」が多かったこと、「チツ」の音読みと「窒」とが一致することなどから、こちらが「正統」と判断したのだろう。
 その影響は日本にも及んだ。それまでの辞書類、例えば1912年の『漢和大辞典』や『新訳漢和大辞典』には、「腟」「膣」の字は載っていても、意味はもともとの「肉生」だけで、女性生殖器の意味は載っておらず、異体字の扱いもしていない。1923年の『字源』、1936年の『新修漢和大字典』までくると女性生殖器の意味が載るようになり、「膣」と「腟」を「同じ」というように関係づける記載が出てくる。1912年から1923年の間にあったことというと、やはり上の『辞源』の存在が気にかかる。1934年の大槻文彦『大言海』で、腟について『辞源』の記述を引用していることからも、当時の辞書編集者が『辞源』を参考にしていた形跡がうかがえる。

 以上のいくつかの間接証拠からは、日本の「腟」も「膣」も中国に伝わったものの、中国の『辞源』で「腟」ではなく「膣」に女性生殖器の意味を載せたことが少なくとも要因の一つになって、今度はその扱いの差が日本に伝わって、日本の辞書のなかで「膣」に正統性を与えられやすくなったという流れが見えてくる。中国と日本を行ったり来たりしている間に、ずれが生じてきたといったところか。
 一方で、医学分野ではたんたんと「腟」を標準にし続けてきており、「膣」の扱いに関する辞書の記述は、医学分野の外で行われてきた。タイトルの問いである、どちらが「正しい」かは、どの世界での「標準」かによって答えが変わってくる、という答えになる。もはやどちらの表記も「誤り」と断じることはできないレベルになっているのではなかろうか。

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[参考文献]
陳力衛 (2014) 「近代中国語辞書の苦悩」沈国威・内田慶市編著『環流する東アジアの近代新語訳語』 p.283-301
直井靖 (1990) 「表外漢字字体表試案の読み方試論」小池和夫・府川充男ら『漢字問題と文字コード』 p.161-227
西嶋佑太郎 (2020) 「医学用語「腟」「膣」の発生と混用」医譚 (復刊)112号 p.81-95

(c)Yutaro Nishijima

 

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