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荊王の枕上 元より夢無し             ――李商隠「元城の呉令に代わりて暗かに為に答う」

 前回この欄に御登場いただいた魏の文帝曹丕[そうひ]、彼と弟の曹植の間には曹操の後継者争いをめぐる確執があったことはよく知られている。曹操が死に、曹丕が魏の初代皇帝として即位したあとも、曹植は「いじめ」を受け続けた。遠い藩に追いやられ、それもしばしば転封されて力を削がれ、さらには罪をでっち上げられて殺されそうになったこともある。兄弟間の相克は、旧約聖書のカインとアベル以来、人間の深奥に潜在するものなのか。しかしそうした根源的な憎悪に結びつけたり、あるいはまた曹丕を陰険な人物と決めつけたりする前に、皇帝とその兄弟の間には常に利害の対立が避けられないことを認めよう。いつの時代でも皇帝が最も恐れるのは肉親であり、とりわけ血を分けた兄弟であった。名君として名高い唐の太宗は兄弟たちを殺すことによって帝位を獲得したし、西晋では安定した御代と見える文帝は即位後に親族を次々誅殺したのである。皇帝が自分の地位を脅かす最も身近な存在である兄弟を警戒するのは当然のことだ。それが悲しい現実であるためか、兄弟が後継者を譲り合う「美談」も中国には少なからず生まれている。たとえば首陽山に餓死した「義人」として知られる伯夷[はくい]と叔斉[しゅくせい]、この兄弟はその先、父の孤竹君が末子の叔斉を跡継ぎにしようとしたために、長男の伯夷は自分がいては父の思いが実現しにくかろうと国を出た。叔斉のほうも兄を差し置いて自分が嗣いでは道にはずれると国を去った。譲り合った二人は故国を離れて周の国に身を寄せ、そこで出会った武王が不義を働くのに抗して首陽山に籠もったのだった(『史記』伯夷列伝)。
 曹丕が曹植をうとんじたのは無理からぬこととはいえ、人々の同情が集まったのは、悲運の才子曹植のほうであった。中国版の判官びいきである、というより、源頼朝・義経にまつわる話は曹丕・曹植の関係をモデルにしているというべきか。日本の歴史故事が中国の話をもとにしていることはよくあることだ。
 曹植を不憫に思う気持ちから、事実をふくらませた逸話がいくつも残されている。七歩のうちに詩を作れ、さもなくば大罪を課すと命じられ、曹植は立ち所に「七歩の詩」を作って曹丕を恥じ入らせたという話、これは彼らより二百年のちの五世紀前半に編まれた『世説新語』(文学篇)に初めて見えるもので、もちろん実話ではない。
 兄弟の角逐は一人の女性をめぐる三角関係を語る話まで生み出している。それは曹植の「洛神の賦」(『文選』巻一九)の李善の注に見える。「洛神の賦」は、都に召喚された曹植が領地に戻る際、洛水のほとりでまどろんでいると、夢のなかに美しい女性があらわれた。それは宓妃[ふくひ]という洛水の女神であった、というもの。原文が語るのはそこまでなのだが、李善はそれにまつわって伝えられた悲恋の物語を記している。洛水のほとりにあらわれたのは、曹植が秘かに心を寄せていた曹丕の妻の甄后[しんこう]であった。甄后は「もともと私はあなたのもとに嫁ぎたかったのです」と思いを打ち明け、二人は枕を交わした。実は彼女は曹丕の寵愛を失ってすでに殺されていたのである。亡霊が消えたあと、曹植は「感甄の賦(甄后に感ずる賦)」を作ったが、曹丕を継いだ明帝は実の母甄后の不倫スキャンダルをはばかって「洛神の賦」と改名した、という話である。
 さて、晩唐の李商隠は二人の悲恋の物語をもとに二首の詩を作っている。一つは「魏宮に代わりて私[ひそか]に贈る」と題する。「魏宮」は魏の宮殿に嫁いだ甄后。甄后に成り代わって曹植に贈った詩を作ってみせたのである。

 来時西館阻佳期  来たる時は西館に佳期を阻[はば]まれ
 去後漳河隔夢思  去りし後は漳河[しょうが]に夢思を隔てらる
 知有宓妃無限意  宓妃の無限の意有るを知れば
 春松秋菊可同時  春松 秋菊 時を同じくす可けんや

 洛陽の西館にあなたがいらした時は会うことを妨げられ、都を離れたあとは漳河[しょうが]に隔てられて夢に思いを通わせることすらかないませんでした。
 宓妃の尽きせぬ思慕の情を知れば、春の松と秋の菊でも一緒に会えるのでしょうか。

 「西館」は都に召喚された曹植が、曹丕との面会も許されずに留め置かれた館。そこで監禁状態にあった時に死罪におびえながら謝罪のことばを綴った「躬[み]を責むる詩」「詔に応ずる詩」およびその二詩を曹丕に「上[たてまつ]る表」が、『文選』巻二〇に収められている。「漳河」は魏の本拠地であった鄴城[ぎょうじょう]を流れる川だが、洛水の代わりに使う。「宓妃」はもちろん甄后を指す。「春松」「秋菊」は「洛神の賦」のなかで宓妃の若々しい美貌をたとえた語。ここでは曹植と甄后の二人に分けて、季節の違う松と菊でも一途な思いさえあれば会えるはず、という。末句の「可」は散文ならば「時を同じくす可し」と断定的に読むところだが、詩では疑問の語気で読むのがふさわしい。
 現実の場ではいつも「阻まれ」「隔てられ」て結ばれなかった二人、しかしこの思いさえあればいつかは……と、甄后の立場から曹植への恋情を熱烈にうたいあげている。いかにも恋愛詩人李商隠にふさわしい詩ではある。


 ところがおもしろいことに、李商隠のもう一首は二人の恋を身も蓋もなく打ち消してしまう。「元城の呉令に代わりて暗[ひそ]かに為に答う」――甄后が贈った詩に答えたのは曹植でなく、元城令の呉質である。呉質は前回に見たように、曹丕が心のこもった書簡を寄せた相手であった。曹丕の側近として支え、曹丕が即位したあとはめざましく出世した呉質は、覚えめでたき腹心、当然曹植とは敵対する立場にあった。曹丕・呉質vs曹植という対立の構図は必ずしも明文化されたものではないが、曹植・甄后の恋を揶揄する人物として呉質を選んだことは、さすが李商隠!その詩は次のとおり。

 背闕歸藩路欲分  闕[けつ]に背き藩に帰るに 路 分かれんと欲す
 水邊風日半西曛  水辺の風日 半ば西曛
 荊王枕上元無夢  荊王の枕上 元より夢無し
 莫枉陽臺一片雲  枉[ま]ぐる莫かれ 陽台一片の雲

 都を背にして自藩への帰途、分かれ道にさしかかると、水辺の風光に日はなかば西に傾いています。
 楚の王の枕辺ではもともと夢など見はしなかったのです。陽台のひとひらの雲を神女の化身だなどとねじ曲げてはなりませんよ。

 前半二句は「洛神の賦」に基づきながら、都を離れ領地に戻る曹植が洛水にさしかかったところをいう。後半二句はさらに別の典故、宋玉「高唐の賦」(『文選』巻一九)が語る巫山[ふざん]の神女の話を用いる。楚の襄王は高唐の楼観の上に刻々と姿を変える不思議な雲を見た。いぶかる襄王に対して、宋玉が「それは朝雲というものです」と説明する。「先代の王が高唐でうたたねをしていると、夢のなかに巫山の神女があらわれ、契りを交わしました。去り際に女は『旦[あさ]には朝雲と為り、暮れには行雨(通り雨)と為り、朝朝暮暮、陽台の下にあり』と言葉を残したのです」。――「巫山の雲雨」といえば男女の交わりを指すほどに名高い情話である。
 ところが李商隠の詩のなかの呉質は、「荊王(楚の王)の枕上 元より夢無し」と、楚王と神女の話をまっこうから否定する。だから陽台の雲を神女の化身だなどと思うのは虚妄に過ぎない、と言うのである。楚の王と神女の情事を妄想だと打ち消し、それと重ねられた曹植と甄后の恋もありもしない絵空事だと否定してしまう。
 先の詩では高らかに「愛の賛歌」を歌い上げていた詩人が、返す刀で恋の虚妄をたたきつける。そこに李商隠の一筋縄ではいかない複雑さが垣間見える。恋の歌であれ何であれ、作品というものはそのなかにどっぷり浸り、その心情に同化することをまず初めに求める。享受者が感涙にむせぶのは、作品の要求する共感に自然に応じたものである。読む側が作者の操る「情」に従うことによって作品は成立する。しかしそれに終始してしまったら、通俗的なレベルから抜け出せない。恋をうたう一方で恋を虚妄と打ち消す李商隠は「知」の詩人でもある。「知」の要素を兼ね備えることは、作品をもう一段高いレベルに押し上げる。「無題詩」をはじめとする李商隠の恋愛詩が極度に洗練された域に達しているのは、「情」だけで終わらない、冴え冴えとした「知」を含んでいるからではないだろうか。

 


画像はメトロポリタン美術館のウェブサイトよりお借りしました。(編集部)

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