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山重水複 路無きかと疑い、柳暗花明 又た一村――陸游「山西の村に遊ぶ」

 中国の詩人といえば老人ばかりが思い浮かぶと、先月のこの欄に記した。実際、夭折の詩人には滅多にお目にかかれない。流星のごとく一瞬の輝きをのこして夜空のかなたに消えていった、という例はごく稀だ。このことは中国の詩の本質と関わりがある。インスピレーションのひらめきよりも、長い人生の辛苦の果てににじみ出た言葉のほうを尊ぶからである。それはまた、詩が架空の想念より、現実の生活に強く結びついていたことを示してもいる。かくして中国の詩人はほぼご高齢なのだが、ことに南宋になるといよいよ長寿者が増える。ここに取り上げる陸游(1125-1209)もそんな一人、八十五年に及ぶ人生をたっぷり生きた。
 陸游は寿命が長かっただけではない。一生の間にのこした詩の数も膨大にのぼる。一万首を超えるといわれる。しかし詩の数が多いだけなら、陸游に匹敵する、あるいは凌駕する人はまだいるだろう。陸游の場合は、詩の内容が濃いこと、またさまざまな面を懐抱していることを特記せねばならない。
 まず第一に、女真族の金に対して徹底抗戦を主張する硬骨漢としての面。中国の北半分を占めた金はたえず南宋を脅かし、朝廷の内部でも講和派と主戦派が激しく対立した。後者に属した陸游はそのために在世中は不遇を余儀なくされ、またそのために死後は「愛国詩人」として讃えられることになった。
 そんな姿とは対蹠的に、みずからのロマンスをうたった詩人でもある。姑に疎まれて離縁せざるを得なかった最初の妻、二十歲のころに別れた彼女に対する思いを、七十五歲になっても陸游は熱くうたっている(「沈園二首」)。そもそも自分自身の愛情体験を詩にすることは中国ではなじまない。ましてや半世紀以上昔を思い出して昨日のことのように激しく愛惜するハートフルな人は、陸游のほかにはまず見つかりそうにない。
 官人として恵まれなかったために、断続的ながら、たびたび故郷の紹興に退居した陸游は、官界生活とは異なる庶民の生活、農民の暮らしをうたった詩もかなりの数にのぼる。それも彼の文学の大切な部分を占める。ここに掲げる「山西の村に遊ぶ」と題する七言律詩もその一つであり、陸游の数多い作品のなかでもとりわけよく読まれ、アンソロジーには必ず採られる作である。

 莫笑農家臘酒渾  笑う莫かれ 農家の臘酒[ろうしゅ]渾[にご]れるを
 豊年留客足鶏豚  豊年 客を留めて鶏豚足る
 山重水複疑無路  山重なり水複[かさ]なり路無きかと疑うも
 柳暗花明又一村  柳暗く花明らかにして又た一村
 簫鼓追随春社近  簫鼓[しょうこ]追随して春社近く
 衣冠簡朴古風存  衣冠簡朴にして古風存す
 従今若許閑乗月  今従[よ]り若[も]し閑に月に乗ずるを許さば
 拄杖無時夜叩門  杖を拄[つ]きて時無く 夜 門を叩かん

  山の西の村に遊ぶ 
 お笑いめさるな、田舎では暮れに仕込む酒がどぶろくなのを。村は豊作、客をもてなす鶏も豚もたんとある。
 山は重なり川は入り組み、道が途切れたかと思うと、柳が小暗[おぐら]く茂り花が明るく咲き、その先にまた一つの村。
 簫や太鼓の音のかけあい、春の祭りも近い。村人の装束は簡素で素朴、いにしえの風を伝える。
 もしこれからも、月に導かれてふらりと訪ねてよいなら、杖を手に気のむくまま、夜に門を叩きましょう。

 

 「笑う莫かれ 農家の臘酒渾れるを」――「朧酒」は秋に収穫した米を使って、朧月(十二月)に仕込む酒。正月には新酒としてできあがる。それが「渾」、混濁している。自家製の濁酒である。上等な清酒を飲む人からは蔑まれる代物だ。「笑う莫かれ」と言う陸游は、農民の側に立っている。が、本来は濁酒を笑う立場の人である。ここに見られる陸游の立ち位置、「笑う莫かれ」が含む二重性、士大夫と庶民、あるいは都市と農村、そうした二項対立の双方に足をかけているところが、本詩の性格を規定しているように思う。一見すると山西の村人と一体となっているようでありながら、実は隔たりがある。この隔たりこそが重要な役割を果たしている。

 「豊年 客を留めて鶏豚足る」――濁酒の原料となる米は豊作だった。訪れる人をもてなす肉も存分にある。「客を留む」の「客」は、何か用件があって訪れるわけではない。今のようにアポイントを取っての訪問とは違う。用事も約束もありはしないのに、ふと通りかかり、ふと立ち寄る、そんな行きずりの人であろうと、客人として接待する。

 来客には鶏をつぶして饗することは、古典のなかにも記されている。子路はふと出会った老人から「鶏を殺し黍を為[つく]りて」もてなされた(『論語』微子篇)。桃花源の住人たちも迷い込んだ漁師のために代わる代わる「酒を設け鶏を殺して」歓待している(陶淵明「桃花源記」)。

 「山重なり水複なり路無きかと疑い、柳暗く花明らかにして又た一村」――幾重にも畳なわる山々、錯綜する水の流れ、もうこの先に道はないかと思っていると、柳・花の茂みがある。柳や花は人が植えたもの、人が住んでいるしるしだから、その奧にまだ知らない村落がありそうだ。山の中でひっそりと暮らしを営んでいる村に、陸游がたまたま迷い込んだのは、桃花源にたまたま入り込んだ漁師に似る。
 「柳暗花明 又た一村」の句は、とりわけ名高い。そのなかの「柳暗花明」、あるいは仄仄平平の平仄をひっくり返した「花明柳暗(平平仄仄)」、この四字はいろいろな人にあちこちで使われているけれども、最初に言ったのは晩唐・李商隠ではないかと思う。その「夕陽楼」という七言絶句に、「花は明るく柳は暗くして天を繞[めぐ]りて愁う、重城を上り尽くして更に楼に上る。……」と見える。この句は李商隠の詩のなかでもことさらに論じられることはなかったが、換骨奪胎というのだろうか、同じ四字を使った陸游の句を知らない人はいない。

 「簫鼓追随して春社近し」――「簫鼓追随」は笛・太鼓の音がわたしのあとを着いてくるとも読めるし、笛と太鼓とが互いに追いかけながら奏されるとも読める。いずれにせよ、にぎやかで陽気な楽の音が、春の祭に浮かれる村人たちの弾む心そのまま、あたりに響き渡る。

 「衣冠簡朴にして古風存す」――祭の装束は素朴で古めかしい。見たことのないようなものだ。この村落では同じしきたりを何百年と続けてきたのだろうか。これも桃花源の住人が先祖が移住してきた秦の時代の服装のままであったのと繋がる。古風なものに触れて、陸游は懐かしさと安堵を覚えている。

 「今従り若し閑に月に乗ずるを許さば、杖を拄きて時無く夜 門を叩かん」。たまたま訪れたこの村が好きになった。次には月の明るい夜、用はなくても興の向くままにまたやって来たい。桃花源は二度と行き着けない異空間であったけれども、山西の村は違う。来たい時には再訪できる。陸游お気に入りの場所の一つとして付け加えることができた。この村は桃花源と同じで、何か特別すばらしい物があるわけではない。しかし世間の喧噪を離れて素朴な暮らしを続けている村はやわらぎをもたらし、ほっとする気持ちのよさがある。

 うっすらと「桃花源記」を思わせるような村ではあるけれども、しかし大きく異なるのは、桃花源が異次元の奇譚であるのと違って、山西の村は現実に存在する村落であることだ。宋人は唐代の詩篇についてもそれが現実であるか否かをしきりに論じ、詩はすべからく事実を記すべしと考えている。そのために詩の内容はぐっと現実に近づく。とはいえ、現実そのものではない。冒頭に陸游と村人の間には隔たりがあると記したが、実際の山西の村とこの詩に描かれた村との間にも隔たりがあるに違いない。隔たりがあるからこそ、この作品はレポートではなく、詩になりえている。これも冒頭に記したように、中国の詩は確かに現実をもとにしている。とはいえ現実を忠実に再現するのではなく、そこから新たな世界を創り上げてこそ、詩という文学作品が生まれる。


(c)Kawai Kozo, 2022

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