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広文先生 官独り冷ややかなり……広文先生 飯 足らず……――杜甫「酔時の歌」

 三年前の夏、久しぶりに中国の学会に参加した。上海の会議のあと、遅ればせながら初めて中国の新幹線に乗って台州[たいしゅう]に移動。浙江省の台州市は以前から訪れてみたかった。鄭虔[ていけん]が流された町なのだ。
 鄭虔というのは盛唐の人。あとで記すように杜甫と同時代。その才を愛した玄宗は朝廷にポストをあてがおうとしたが、役人の仕事には向いていない。そこで彼のためにわざわざ「広文館」という部署を設立し、「広文館博士」に任命した。多才な人物で、自筆の絵に詩を添えて玄宗に呈すると、玄宗はそこに「鄭虔三絶」と大書した。詩・書・画のすべてにすぐれると絶賛したのである。
 これだけならば、才能がきらきら輝く華やかなスターといった人物が思い浮かぶ。それはそれで間違いではないのだが、鄭虔の実態は絵に画いたような才子とはおよそ懸け離れていた。
 広文館博士に特別任用された鄭虔、朝廷のなかに勤務すべき広文館が見当たらない。うろうろしたあげく、宰相に尋ねると、「広文館は最近設置され、文教政策を統括する役所です。あなたは名望高いので、特別に抜擢されました。広文館の初代博士という栄誉は、のちのちまでも輝くことでしょう」。口達者な宰相は実[じつ]のなさを名にすり替えた。言いくるめられた鄭虔はなんとなく納得して職務に就くことになった。
 鄭虔の仕事ぶりはおよそ勤勉とは言いがたい。登庁すると、勝手に馬を自分の部屋の脇に繋いだ。今だったら駐車場を素通りして、自分のオフィスに車を横付けするといったところだ。職場から即座に帰宅するためである。そして職務中に酔っ払うと、さっさと帰ってしまう。そのたびに上部から叱責された。
 あてがわれた建物は古くて雨が漏る。だのに事務官は修繕もしてくれない。やむなく国子監に間借りすることになった。国子監も文教関係の官庁だから職掌は近い。広文館の方は形骸化し、やがて自然消滅してしまった。
 役人たちに冷たくあしらわれたにしても、これだけならまだいい。鄭虔にとっての不幸はそのあとにやってくる。安史の乱である。賊軍は洛陽に偽政権を作り、鄭虔は水部郎中の官を授けられた。安禄山の偽政権に入ったことで有名なのは王維であるが、王維が多芸多才な宮廷詩人として名が知られていたように、鄭虔も「鄭虔三絶」で世間の評判が高かったために、偽政権に目を付けられたのかも知れない。
 賊軍の政権に加わったことは、乱の平定後には重大な反逆行為とみなされた。関わった者には死罪という厳罰が下ったのである。王維の場合は、賊中にあっても唐王朝への忠誠を示す詩を裴迪[はいてき]に口伝えしていたと、いささか物語じみた話によって復権することができた。鄭虔の場合は、親族に予知能力をもった男がいて、安史の乱の勃発、それに巻き込まれるであろう事態をあらかじめ予言されていたので、乱の渦中にあっても用心して身を処した。そのために死罪は免れたという、なんだか怪しげな話が記録されている(『太平御覧』が引く『前定記』)。
 上の話は王維にしても鄭虔にしても、賊軍のなかにありながら心底からは帰順しなかったことを伝えているのだが、そのように語らねばならなかったほど、偽政権に入ったことは大逆だったことがわかる。話では予言のおかげで鄭虔は台州流謫という軽い罪で済んだことを強調している。しかし杜甫の送別の詩を見ると、台州に流されたことはやはり大変な重罪だったようだ。
 杜甫の詩に鄭虔が登場するのは、「鄭広文に陪して何将軍の山林に遊ぶ」という十首の連作詩から始まる。天宝十二載(七五三)、杜甫が長安で求官活動を続けていた時期である。就職につながる名士のもとへたびたび訪れていたが、何将軍もそうした相手の一人だったのだろう。鄭虔が何将軍の荘園に招かれた時に、彼のお供をして行ったというから、その時すでに知り合っていたことになる。この詩では主題は何将軍の荘園にあって、鄭虔は登場しない。あるいはまださほど親しくなかったのかも知れない。
 しかし急速に距離は縮まる。杜甫はまだ無位無冠。一方の鄭虔は玄宗がじきじきに「広文館博士」を授けた有名人。二人の身分差はずいぶんある。年齢も三十歳近く鄭虔が上だったようだ。しかし杜甫の詩を見るかぎり、二人の交友は「布衣の交わり」であり「忘年の契り」であった。
 翌天宝十三載の「酔時の歌」は、もはや二人が「形を忘れて爾汝[じじょ]に到る(形式など無視して俺お前の仲)」という親しさのなかで奔放にうたわれている。二十八句に及ぶ詩は次の四句から始まる。

 諸公袞袞登台省  諸公 袞袞[こんこん]として台省に登る
 広文先生官独冷  広文先生 官独り冷ややかなり
 甲第紛紛厭粱肉  甲第 紛紛として粱肉に厭く
 広文先生飯不足  広文先生 飯 足らず
 
 お歴々は次から次へとお役所に登庁。広文先生はひとり冷たい仕打ち。
 お屋敷には嫌というほどの米と肉。広文先生は飯にも事欠く。

 同じく朝廷の高い地位にあるはずなのに、鄭虔だけは華やぎもなく金もない。対比のなかでみじめさを描くのだが、どこか滑稽味を帯びている。「広文先生」という言い方も戯画化されている。
 このあと、詩は冷淡なあしらいは鄭虔にとって不当である、彼は人格・文才・徳義・名声、いずれにおいても卓越しているのにこのありさまだ、と続く。人間の実質と世間の評価の乖離、それはまだ官を得られない杜甫自身のものでもある。そして自身の貧窮に移る。貧しさでは杜甫も鄭虔に負けてはいない。
 そんな二人が出会い、意気投合して酒を酌み交わす。

 清夜沈沈動春酌  清夜 沈沈として春酌を動かし
 燈前細雨簷花落  燈前 細雨 簷花[えんか]落つ

 清らかな夜が静かに更けてゆく。
 ともしびの前には細かな雨、軒端から花が落ちる。

 やがて酔いがまわり、思いは激烈になってゆく。不如意なありさまに心はいきり立ち、自暴自棄に近づく。そして最後の四句。

 儒術於我何有哉  儒術 我において何か有らんや
 孔丘盗跖倶塵埃  孔丘も盗跖[とうせき]も倶に塵埃
 不須聞此意惨愴  須[もち]いず 此を聞きて意惨愴[さんそう]たるを
 生前相遇且銜杯  生前に相い遇えば且[しばら]く杯を銜[ふく]まん

 学問など自分にとって何になろう。聖人の孔子も大泥棒の盗跖もみんな土に帰す。
 この歌を聞いて凄惨たる思いをいだく必要などない。せっかく生きている時に出会えたのだから、まずは酒を酌み交わすことにしよう。

 一見すると、不遇な人同士が悲しみに沈んでいたわり合う詩であるかに受け取られるが、実は違う。世の不条理に対する怒りが激しく燃えたぎっているのだ。詩聖と言われると、常に常軌をはずさない君子であるかに思ってしまうけれど、時に狂気が乗り移ることもある。とはいえ、世間からはじき出された変人二人、憤りにもかわいらしさがあるところがおかしい。
 この「酔時の歌」は安史の乱勃発前のことである。そのあと、鄭虔は台州流謫という更なる不幸に見舞われる。杜甫は見送りに行かないまま送別の詩で悲しみ、別れたのちも鄭虔の旧居を尋ねて彼を偲び、台州からの便りを得て詩を作り、その死を聞いた時も弔う詩を書き、さらに晩年、生涯に出会った八人の人物を追憶した「八哀詩」のなかにも鄭虔を回想した詩がある。李白の場合と同じように、鄭虔にまつわる詩も別れてからの方が多い。

 さて台州は宗教的な聖地天台山も近くにあり、山と海のいずれにも恵まれた地であるけれども、当時は中心が内陸にあったから、海に臨んでいるということはすなわち地の果てであることを意味した。「山鬼 独り一脚、蝮蛇[ふくじゃ]長くして樹の如し」(「台州の鄭十八司戸を懐う有り」)、一本足の化け物、樹木ほどに長い大蛇と、杜甫もその地の恐ろしさを書いている。

天台山の古刹国清寺(写真はWikipediaより)

 わたしが台州を訪れた時、予定されていた参観の地を変えて、鄭虔記念館に連れて行っていただいた。古い建物の堂を当てたもので、九十歲を超えた老夫婦が管理していた。二人は珍しい参観者の来訪を喜んでしきりに説明してくれたが、訛りがきつくてほとんど聞き取れなかった。建物も一室かぎり、それも整備されているとは言いがたい。わたしは雨漏りする広文館を思い起こし、記念館の建物も管理人の老夫婦もなんだか鄭虔にとてもふさわしいような気がした。

 

 鄭虔は李白と並んで杜甫が人生のなかで最も親しみを覚えた人である。李白・鄭虔に共通するのはどちらも才子であるとともに、唐王朝に反逆した罪人とみなされたことだ(李白は永王のクーデターに加担して夜郎に流される罰を受けた)。罪を犯したゆえんは、二人とも状況を的確に判断できなかったところに求められると思う。状況判断の能力に欠け、社会生活に適応しにくい人間、それはまた杜甫を惹き付けたゆえんでもある。わたしたちが描く鄭虔の姿はほとんどが杜甫の詩に由来している。杜甫の目を通して捉えられた鄭虔像、それは実際の鄭虔とずれがあるかも知れないけれども、杜甫の描き出した人間像は人間の一つのありかたとして、たっぷり魅力を備えている。


(c)Kawai Kozo, 2021

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