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風光動かんと欲して 長安に別れ、春半ばの辺城 特地に寒し――韓愈「夕べに寿陽駅に次り呉郎中の詩の後に題す」

 現役の教師だったころ、よその大学から集中講義の声が掛かると、二つ返事で引き受け、いそいそと出掛けたものだった。たとえ1週間足らずであっても、知らない町に暮らしてみるのはわくわくする。それはもちろん定住ではないが、素通りするだけの旅行とも違う。毎朝、宿から大学までの町並みを物珍しく眺めながら、ずいぶん多くの都市に短期滞在することができた。
 集中講義が教師にとって好都合なのはもう一つ、初めて出会う受講者には以前に使ったトピックでも再使用できることだ。本務校ではひとたび中国文学専攻に入って来た学生は、学部・大学院・研修員……延々と付き合いが続く。前に話したことをしゃべろうものなら、彼らは容赦なく「聞いた!」と叫ぶ。しかしよその大学なら「持ちネタ」を繰り返しても覚られることはない。
 そんな新顔を前にするたびに持ち出したクイズがある。一つは「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」――正岡子規の母が口にした言葉を子規がそのまま俳句としたという、つまりは日常言語と詩的言語の境界に位置する句である。問題はここでの「彼岸の入り」は春の彼岸か秋の彼岸か、というもの。彼岸に春と秋の二つあるとは知らなかったという偏差値秀才がいたのには驚いたが、「彼岸の入りは春の季語です」と教えてくれた博識の女子学生もいた。でもそれでは答えにならない。なぜ春の季語なのかが問題なのだ。とはいえ、なぜ春なのかを考えるよりも、なんとなくそんな気がする、自然にわかる、それで十分ではないか。説明抜きで体得するところに季節感があるのだと思う。
 強いて説明すれば説明できないでもない。寒暖はもともと相対的なものであって、ここで「寒い」と感じたのはもう暖かいはずなのにという前提があるからだ。もう暖かいはずと思うのは、春の彼岸に入っているからではないだろうか。
 もう一つのクイズは、成人向き都々逸。「人に言われぬ仏があって○の彼岸に回り道」――○に入るのは春か秋か。これも敢えて説明すれば、「人に言われぬ仏」は過去の秘められた恋の相手、その人はすでに故人となっている。一家の墓参りを終えると、自分だけこっそり回り道して別のお墓に手を合わせる。過ぎてしまった遠い日の恋を追慕するには、芽吹き花開く春の時節よりも、夏の暑熱がすでに収まり、おだやかな秋の日差しのなかに線香の煙が静かにたなびく秋の彼岸こそふさわしい。
 春の彼岸にせよ秋の彼岸にせよ、冬と夏のはざまにある。それはちょうど夜明けと日暮れ、英語でいうtwilightが、昼と夜のあわい、光と闇が混じり合う時であるのに似る。上の二つの例は、冬から春へ、また夏から秋へ、二つの季節が移り変わっていく時期であり、だからこそ季節の微妙な変化を味わうことができる。

 こうした繊細な季節感覚を捉えた中国の詩は? というと、とっさに思いつかない。魏晋の時期の詩句には、暑い夏が去ったという爽快感はよくうたわれていたと思うが、それは夏から秋へ「変化した」ことであって、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」のように、「変化のきざし」を捉えたものではない。『古今和歌集』藤原敏行のこの歌は、視覚ではまだ知覚できないのに、ふと耳にした風の音に秋の先触れを感じた驚きから発している。夏から秋への転換を聴覚が先に捉えたことになる。季節の捉え方に関しては、日本ほど細やかな文化はほかに例を見ないのかも知れない。
 こんなことを思っていた矢先、たまたま韓愈の読書会で、場所による季節の違いを捉えた詩句に出会った。ここでちゃっかりCMを挟むと、この読書会の成果は『韓愈詩訳注』として第三冊が近く研文出版から刊行されます。韓愈というともっぱら散文作家として名高いが、詩ももっと注目されてよいと思う。

 長慶二年(八二一)、韓愈は朝廷の用務を帯びて長安を発ち、太原(山西省太原市)近くの寿陽県という町に泊まった。長安から北東にほぼ七百キロ。方角も距離もほぼ京都と仙台の関係に近い。同行した呉丹[ごたん]という副使の詩に続けて、韓愈は次の詩を駅舎の壁に書き付けた。朝廷からの使者がお着きだというので、その地の役人が出迎え、詩を所望したのに応えて、白い壁に黒々と墨跡をのこした、そんな情景が目に浮かぶ。

   夕次寿陽駅題呉郞中詩後  夕べに寿陽駅に次[やど]り呉郎中の詩の後に題す
 風光欲動別長安  風光 動かんと欲して 長安に別る
 春半辺城特地寒  春半ばの辺城 特地[とく]に寒し
 不見園花兼巷柳  園花と巷柳とを見ずして
 馬頭惟有月団団  馬頭 惟[た]だ月の団団たる有るのみ

 風と光が動きそめたころに長安を離れたが、春も半ばの辺境の町はとりわけ寒い。
 花園に花は見えず、通りに並ぶ柳も芽吹いていない。馬の向かう先に丸い月だけがぽっかり浮かんでいる。

 「風光 動かんと欲す」、何もかもが凝結していた長い冬が終わり、風と光が動こうとする。季節が転換する気配には違いないが、それを「動く」というのがいい。まだ暖かくはなっていない。でも風と光のかすかな変化に次の季節へと変わるきざしが感じられる。
 都を発ったのは、そんな早春の時だった。暦では春の半ばになってたどり着いた北の田舎町、ここは思いのほか寒く、春の気配すらない。今ごろ、都ではここかしこに花が咲き乱れ、街路樹の柳が一斉に芽吹いていることだろう。眼前には冬枯れたままの灰色の町、そこに紅や緑の色彩あふれる都の春景色が重ね合わされる。
 ここにあるものといえば、馬の頭の先に浮かんだ満月のみ。それは旅立ってから最初に迎える満月だっただろうか。まるい月は旅人に時間の経過を気付かせる。とともに、凍てついた冬の夕空に上がってきた月は、唯一の明るい色ではある。が、しかしなんだかあまり鮮やかな輝きを放ってもいないかのようだ。
 旅に出て時間が経過したのに、それが北方への旅であったために季節のほうは冬に逆戻り、という詩である。言ってみれば、空間を移動したことによる季節の逆転である。「特地に寒し」と感じるのは、出発地の長安を規準としているからだ。旅の起点をもとに寒暖を判断するのは当然ではある。

 しかしこの詩から離れて、一般に中国では季節・気候はどこを規準とするのだろうか。日本の古典の場合はわかりやすい。すべてが京都を規準としている。地形の複雑な日本は、土地によって季節も多様であり、気候も変化に富む。にもかかわらず古典文学のなかでは、ほぼ京都における感覚に基づいている。
 望郷の思いについて、『万葉集』の専家である故芳賀紀雄さんからうかがったことがある。日本の古典文学では、地方に身を置いて都を思うのが望郷であったという。「郷里を偲ぶ」と言いながら、実は都への思いだったことになる。明治になって地方出身者が東京に集まることによって、望郷は初めて郷里を懐かしむことになった。どちらも都―地方という二項対立にまとめられるにしても、古典文学では地方は任地であり、近代以降は故郷を指すというように、中身は同じでない。
 中国の望郷の思いは、郷里―都―任地の三極構造のなかで生じる。任地にあって都を思う詩もあるが、都や任地にいて郷里を偲ぶ詩が多い。二点が三点になることによって、「望郷」は日本よりずっと複雑になる。

 季節・気候に話を戻せば、中国の場合、日常感覚としてはそれぞれ生活する地をもとにするにしても、文学のなかには決まった規準がある。それは恐らくまずは中原の地を規準としたことだろう。日本でも中国でも文学が営まれる中心の地が規準とされる。しかし4世紀の初めに都は建業(南京)に遷った。江南へと文化の中心が移動したのだ。この移動(南渡)は政治のみならず文化のさまざまな面でも大きな変化を生じたに違いない。山水詩が登場するのは南朝宋の謝霊運からと言われるが、ほぼ同時期の東晋・陶淵明、そして謝霊運によって「風景の発見」がされたのは、南渡によって中原を中心としたそれまでの伝統とは異なる環境が立ち現れ、それによって外界を新たな目で見ることになったからではないだろうか。南渡が中国の文化にどのような変容をもたらしたか、この問題にはもっと関心をもっていいと思う。
 しかし唐代にはふたたび都は長安に戻る。そして以後も王朝は次々代わり、都もあちこちに遷る。政治・文化の中心である都が、文学においても規準の場となるのであれば、時間も空間も広大な中国はやはり一筋縄ではいかない。


(c)Kawai Kozo, 2021

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