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鼠を執るに功無きは元より劾せざるも、一簞の魚飯 時を以て来たる ――陸游「猫に贈る」

 犬や猫が人とともに暮らすようになったのは、いつごろから始まったことなのだろうか。本来は野生であった動物が人と共生するには、新しい環境に適応すべく何らかの変化が生じたはずだけれども、高校の生物の授業では「獲得形質は遺伝しない」と習った。そのあたりの問題は、今の生物学ではどのように説明されているのか。
 始原はともかく、中国でも古くから犬は人に飼われていた。ペットというより、番犬・猟犬としての働きを求めたものだろう。主人に忠実な犬の本性を人が利用したのだ。大盗賊の盗跖[とうせき]の犬は、聖君の堯[ぎょう]に向かってさえ吠えかかるという話がある(『戦国策』斉策)。前漢・鄒陽[すうよう]の文では、犬の主人が入れ替わって、夏王朝最後の王、残虐で知られる桀[けつ]の犬が堯にも吠えるという(『史記』鄒陽伝。『文選』「獄中に書を上[たてまつ]りて自ら明らかにす」)。盗跖や桀を悪党とし、堯を聖人とするのは人間が作り出した区別に過ぎず、犬には通用しない。知らない人に向き合ったら、犬は堯だろうが泥棒だろうがおかまいなしだ。

 孔子も犬を飼っていた。『礼記』の檀弓篇[だんぐうへん]には葬儀・埋葬に関する話柄が多く集まるが、その下篇にこんな話がある。――飼い犬が死んだ時、孔子が言った、「古いカーテンを棄てずにおくのは、馬を埋葬するため、車の使い古した幌を取っておくのは、犬を埋葬するため、と聞いている。貧乏なわたしには車の幌とてないが、せめてむしろでくるんで、直[じか]に土に触れないようにしてあげよう」。
 大切に葬られた孔子の犬は幸せだった。犬の死を悲しみ、あたたかな思い遣りをかける孔子が、身近な人に感じられる。動物に対する人の情愛を伝える佳話である。

 孔子は何のために犬を飼っていたのかわからないが、秦の李斯[りし]の話に出てくる犬は明らかに猟犬である。しがない役場勤めから身を起こし、始皇帝を助けて天下統一を成し遂げ栄華の絶頂を極めた李斯は、始皇帝の死後、宦官趙高[ちょうこう]との権力闘争に敗れて死罪に処せられることになった。刑場へ向かう途上、ともに殺される子供に彼が話しかけた。「昔、いなかで暮らしていたころ、犬を引き連れてウサギ狩りに出掛けたことがあったね。今となってはかなわぬことだ」。そして父子は泣きくれたという(『史記』李斯列伝)。無名の市井人から大国の宰相にまで昇りつめた李斯にとって、犬を連れてのウサギ狩りは、平凡であっても何にも代えがたい幸せな家庭生活そのものであった。

 忠犬の話もある。西晋の大文学者陸機[りっき]は、もとは晋に滅ぼされた三国・呉の名門の出であった。亡国の人として蔑みを受けながら晋の都洛陽に暮らしていたが、ある時、黄耳[こうじ]という名の愛犬に語りかけた。「故郷からの便りがまるでない。お前が手紙を届けてくれないか」。黄耳は尻尾を振ってワンと答えた。そこで陸機は竹の筒に手紙を入れ、犬の首に結びつけた。犬は南に向かって走り出し、返書を受け取ると洛陽に戻ってきた。その後は犬を使者として書簡の往来を続けたという(『晋書』陸機伝)。洛陽と吳の建康(今の南京市)は直線距離でも700キロ近い。東京―広島にほぼ相当する隔たりがある。実話というより伝承であるにしても、人と犬との気持ちの交わり、陸機の故国に対する切ない思いを伝えている。
 人の暮らしは時代によって大きく変わり、それに応じて生活のかたちや心情にまで違いが生じるものだが、犬や猫の生態には時代が変わってもさしたる変化はない。たとえば長く家を空けたあとに戻ってくると、犬は(ほかの家族よりも?)喜んで迎えてくれるものだが、杜甫が飼っていた犬も、三年ぶりに成都の浣花草堂[かんかそうどう]に帰った杜甫をこんなふうに迎える。

 旧犬喜我帰  旧犬は我の帰るを喜び
 低徊入衣裾  低徊して衣裾に入る   (「草堂」)

 前から飼っていた犬がわたしの帰還を喜んで、もそもそと裾のなかに入って来る。

 足下にすり寄る犬の感触が伝わってくるかのようだ。

 

 犬を飼ったことがあれば、誰でも経験することだが、リードをはずして山道を歩いていると、犬は先に行ったり戻って来たりを繰り返す。そのことは、南宋・范成大が書いている。

 随人黄犬攙前去  人に随って黄犬は前を攙[あらそ]いて去り
 走到渓辺忽自迴  走りて渓辺に到りて忽ち自ら迴る   (「四時田園雑興六十首」其九)

 人とともに歩いていた犬が、先に出て走り去ったかと思うと、水辺まで行ってふいに引き返してくる。

 杜甫や范成大が書いている犬の行動は、今もそのままである。わたしがおもしろいと思うのは、そのことだけでなく、詩人が犬のそうした場面を捉えていることだ。言われてみると、なるほど今の犬にも思い当たる。いかにも犬らしいそんな行動に着目するのは、やはり物を見る非凡な目があればこそだ。

 猫も鼠の害を防ぐために古くから飼われていたはずだが、早い時期の詩文のなかにはすぐには思いつかない。中唐の韓愈に至って、「猫 相い乳す」という文がある。馬燧[ばすい]という当時の政界の重鎮、彼の家の猫は母猫が死んだ子猫に、我が子と同じように乳を与えていたことを記し、主人の人徳が猫にまで感化を及ぼしたと讃える。この一文は馬燧の推挽を得るために取り入ろうとした思惑が感じられないでもないが、同じく韓愈の「嗟哉[ああ]董生行」という詩では、董召南[とうしょうなん]という世に埋もれた人士の徳がまわりの動物たちまでも慈愛深いものにしていることを記す。鶏が子犬に餌を与えようと地面の虫を与え、虫など食べようとしない子犬を羽で蔽って守っているという。
 韓愈門下の賈島には「義雀行 朱評事に和す」という詩があって、親鳥が見放した燕の雛をつがいの雀が餌を与えて巣立ちするまで育てたという話が見える。そのことを記した朱評事という人の文に添えた詩である。
 こうした美談は当時流行していたのか、ややさかのぼって中唐初期の代宗の時、鼠に乳を与える猫が、朝廷で吉祥としてもてはやされたこともあった。それに対して後に宰相の地位まで昇った崔祐甫[さいゆうほ]は、一人異を唱えた。「猫は鼠を捕らえるのが本性、それが鼠を育てるなどは常態を失ったもの、不吉を傷むべきであっても、慶賀すべきではない」(『旧唐書』崔祐甫伝)。こうした理性的判断も同時代にあったのである。

 儒家の道義を動物にまで押しつけた話柄は、当時の人々を感心させたかも知れないが、今読んでもさして惹き付けられない。それよりも先に挙げた杜甫や范成大の犬のように、猫の場合もいかにも猫らしいとほほえんでしまう面を捉えた詩のほうがおもしろい。
 宋代に入ると、猫も詩のなかにたびたび登場するようになる。宋詩に日常生活が取り込まれていくことの一つのあらわれだろう。猫好きと言えば、なんといっても南宋の陸游である。「猫に贈る」と題する詩が三首あるが、思わず笑ってしまうのは、次の詩だ。

 執鼠無功元不劾  鼠を執るに功無きは元より劾[がい]せざるも
 一簞魚飯以時來  一簞[いったん]の魚飯 時を以て来たる
 看君終日常安臥  君の終日 常に安臥するを看れば
 何事紛紛去又回  何事ぞ 紛紛として去りて又た回る

 ねずみを捕る功なきを責めはしないが、魚を混ぜた飯には時間どおりきちんとやってくる。
 日がな一日のんびり寝ている君を見ていると、ばたばた走り回っているわたしは一体何なのだ。

 怠惰で役立たず、なのに憎めない。我が道を行く猫は、主人の役に立とうなどという頭は毛頭ない。しかし食事時だけはしっかりわきまえていて、さも当然といった顔をしてあらわれる。北宋の陳師道は書斎に猫を入れなかったというが、陸游の猫は彼が拡げる書物の上に寝そべって、読書の邪魔をしていたのではないだろうか。終日寝てばかりいる猫を陸游は我が身に引き比べる。本性のままに自在に生きる生き方と、あくせくと常に追いまくられている生き方との対比である。そうした生き方についての省察を含みつつも、この詩には猫に対するやさしい愛情とあたたかなユーモアがあふれている。

 北宋・梅堯臣[ばいぎょうしん]には「猫を祭る」と題する詩もある。陸游の猫と違って、梅堯臣の猫は鼠を捕るなど、主人をおおいに助けたようだ。長く生活をともにしてきた思い出をあれこれ綴ったあと、最後の二句に言う、

 已矣莫復論  已[や]んぬるかな 復た論ずる莫かれ
 為爾聊欷歔  爾[なんじ]の為に聊[いささ]か欷歔[ききょ]せん

 ああもうこれ以上語るのはやめにしよう。今はただお前のためにちょっと涙を流そう。

 ペットロスに陥る人の心も今と変わりはない。身近な動物たちにあたたかな愛情を注いだ詩人たちによって、このように書き留められた犬・猫の姿は、いつの時代にも変わらぬ犬らしさ、猫らしさを今に伝えている。

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