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江は漲る 柴門の外――杜甫「江漲る」

 コロナ禍が世界中を覆っている最中に、日本ではそれに加えて、この夏もまた水害が起こった。ほとんど毎年繰り返される洪水や土砂崩れ、そして何年かに一度襲ってくる地震や津波――日本はほんとうに災害の多い国だと悲しくなる。アメリカの古い町、たとえばボストン近くのセーラムなどを歩いていると、そこかしこの建物に百年、二百年前に建ったことを示す標識が誇らしげに掲げられている。とりわけて文化財といった感じもしない、ごくふつうの木造の家屋で、もちろん今もそこに暮らしている人がいる。彼らは滅多に天災を経験することがないから、古い住居をそのまま使い続けることができる。それに対して日本では水害・震災に加えて、戦災でなめるように町全体が焼かれた経験もある。そのことだけで比べてみても、彼の国の豊かさが納得できる。日本では一からやり直す苦渋を何度も強いられてきたのに、彼らにはその労力や出費が必要なかったのだから。
 水害に関して言えば、中国も昔から洪水に苦しめられてきた国だ。北中国を代表する大河である黄河などは、その流れが時代ごとに大きく変わっているほど、氾濫が繰り返された。蘇軾が徐州(江蘇省徐州市)の知事に赴任した直後(煕寧[きねい]十年、一〇七七)、黄河が決壊して、城内では二か月あまりも水が引かなかったことがある。蘇軾は先頭に立って強固な堤防を築き、元の水筋に戻すことができた。
 杭州は江南の風光明媚な町として知られるが、唐代ではたびたび水害に悩まされた、水利の悪い田舎町に過ぎなかった。杭州の西湖に今もその名がのこる白堤・蘇堤は、杭州の知事であった唐の白居易・宋の蘇軾にちなんだ治水の跡である。治水こそ中国の統治者の最も大事な仕事であった。そして現在も三峡ダム周辺の水位が異常に上がっているという報道もある。

 大きな水害の話はここまでとしよう。もう少し身近な風景として雨や激流をうたった詩といえば、杜甫に際立って多い。それも成都にいた時期に集中している。官を捨て長安を離れ、長い苦難の旅の末にたどり着いたのが蜀の都、今では四川省の中心、成都であった。やっと安住の地を得た杜甫は(それも数年後には去ることになるのだけれども)、成都の西の郊外に住まいを設ける。浣花草堂[かんかそうどう]と呼ばれたように、村を抱きかかえるように湾曲して流れる浣花渓[かんかけい]に、家は面していた。家の前に張り出しを作って、そこから直接釣り糸を垂らすことができたほど川に密接した住まいだったから、目前の川が大雨で増水することもしょっちゅうのことだ。

  江漲     江漲[みなぎ]る
 江漲柴門外  江は漲る 柴門[さいもん]の外
 兒童報急流  児童 急流を報ず
 下牀高數尺  牀より下れば高きこと数尺
 倚杖没中洲  杖に倚[よ]れば中洲没す
 細動迎風燕  細やかに動く 風を迎うる燕
 輕搖逐浪鷗  軽やかに揺らぐ 浪を逐う鷗
 漁人縈小楫  漁人 小楫[しょうしゅう]を縈[めぐら]し
 容易拔船頭  容易に船頭を抜く 

 江[かわ]の増水
柴の門の向こうに江は溢れんばかり。流れのすごさを子供が知らせに来た。
牀から降りてみると、数尺ほど水かさが増し、杖にもたれて眺めれば、中州はもう水中に没した。
細かに動くのは風に向かうツバメ、軽やかに揺れるのは、波を追って浮かぶカモメ。
漁師は小舟の向きを換えて、やすやすとへさきを操る。
          (訳は川合『杜甫 上』、明治書院、二〇一九、による)

 

 「江」は長江ではなく、南方の川はすべて江と呼ばれる。ここでは家の前の浣花渓を指すが、やがては南中国を代表する大河である長江に流れ込む支流の支流。ふだんとは違う激しい流れになったことを、子供が言いにきた。「お父さん、すごい流れだよ」。子供は興奮で目を輝かせていたに違いない。その興奮は杜甫のものでもある。「牀」[しょう]は寝台と訳されるが、寝るために限らない。その上に座して本を読んだり物を書いたりする台だ。杜甫も牀から降りて、いそいそと増水を見に行く。みるみるうちに増えていく水はいつもと違う面持ちを見せる。しかし増水にもかかわらず、鳥たちは風に向かい波を追い、自在に活動している。鳥だけではない。船頭も激流を手玉にとって小舟を操っている。この時の増水は危険を及ぼすほどのものではなかったのか、後半四句は増水した川と共存している鳥・人を描いている。

  春水生二絶   春水生ず二絶
   其一
 二月六夜春水生  二月六の夜 春水生ず
 門前小灘渾欲平  門前の小灘[しょうたん]渾[すべ]て平らかならんと欲す
 鸕鷀鸂鶒莫漫喜  鸕鷀[ろじ]も鸂鶒[けいせき]も漫[みだ]りに喜ぶ莫かれ
 吾與汝曹俱眼明  吾れ汝曹[なんじら]と俱[とも]に眼明らかなり

 春の大水 絶句二首
  その一
二月六日の夜、春の大水が起こった。門の前の小さな浅瀬はすっかり水が張り詰めた。
ウもオシドリもやたらにはしゃぐなよ。わたしもお前たちと一緒に目を輝かせているのだ。

 唐以前の詩に具体的な日付が記されることはまれなのに、ここで「二月六日の夜」とわざわざ書いているのは、この夜の大水が特別のことであったことを刻みつけておきたかったのだろう。水かさが増えて、ふだんは浅瀬になっている所まで全部水没している。大水に興奮して鳴き騒ぐ水鳥たち、彼らは異常な増水に恐れを覚えて鳴いていたのだろうが、しかし杜甫はそれを「喜」んでいるのだと受け取る。杜甫自身の心が高鳴っているからだ。この詩でも常ならぬ出水を見た杜甫は子供のように胸を躍らせる。

  其二
 一夜水高二尺強  一夜 水高し 二尺強
 數日不可更禁當  数日 更に禁当[きんとう]すべからず
 南市津頭有船賣  南市の津頭[しんとう]船の売る有るも
 無錢即買繫籬旁  銭の即ち買いて籬旁[りぼう]に繋ぐ無し

 その二
一晩で水は二尺あまりの高さになった。数日もしたら堪えられそうにない。
南の市場の船着き場では船を売っているが、買って垣根に繋いでおく金がない。

 水は一気に増える。このまま増え続けたらそのうち家も浸水しそうだ。船で避難することも考えたほどである。しかし船を買うには手元が乏しいと詩を結ぶところは、さほど深刻に事態を捉えてないかにも見える。自嘲を含んだユーモアすら感じられないでない。
 上に一部を挙げたように、杜甫はしばしば水かさの増えた激流を詩に詠ずる。それは詩の題材として誰の詩にも見える定着したものではない。杜甫だけがとりわけ好んで取り上げている。家が水没するほどの目には遭ったことがないためでもあるだろう。「溪漲る」と題した詩では、ふだんは一尺あまりの水が「秋夏には忽[たちま]ち汎溢[はんいつ]し(氾濫して)、豈に唯だ吾が廬に入るのみならんや」、わたしの庵が浸水するだけじゃない、魚やカメはもちろん、水底のミズチや龍まで慌てふためく、というから、浸水したことはあったようだけれども。
 日常と違う姿に変貌した激流を、杜甫は興奮して見つめ続ける。戦さの続く世を憤り、流浪の続く身を嘆く杜甫、「一生憂う」と言われる心配性の彼が、奔流する流れには心を高ぶらせるのはなぜか。そこに自然のもつ力、たくましさ、エネルギーを感じ取ったのだろうか。人間のもたらす災害である戦乱を嘆く時とは違って、大水を詠じた詩にはいつも余裕が感じられる。

 水害に苦しむ我々にとっては余裕どころではないが、しかし原発事故や環境汚染といった人間が生み出した災害とは違って、水害は自然の脅威であると同時に、自然の力に畏敬をいだかせるものでもある。人の非力を痛感しながら、恵みも与えてくれる自然となんとか折り合って生きて行くほかない。

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