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唐・沈既済「任氏伝」

 前回に続き、狐のお話です。
 日本の物語の中でも狐は人に化けるものとしてしばしば登場しますが、中国でも人の姿に化けることがありました。例えば東晋・干宝[かんぽう]『捜神記』巻十八には、長い年月を生きた狐が不思議な力を得て、人間の若者に姿を変えて張華という知識人のもとを訪れた故事が載っています。張華は若者の見識があまりに深いので、狐なのではないかと疑い、結局、狐は正体が知られて殺されてしまった、という話です。
 『捜神記』で張華に会いに来た狐は男性に化けていましたが、女性にも化けます。唐代伝奇小説「任氏伝」[じんしでん]は、「任氏は女妖なり」という一文から始まり、美女任氏が妖であることが読者に最初から明かされています。物語の冒頭、うだつの上がらない貧しい青年鄭六に見初められ、狐の妖であることを知られていながら、任氏は彼の愛人になります。鄭六の親戚であり、金持ちの韋崟[いぎん]も任氏をいたく気に入り、鄭六と任氏は韋崟の経済支援を受けながら幸せな日々を過ごします。
 この物語には、端々に、知っている人には任氏が狐だとわかる仕掛けが施されており、そこから当時の人々が持つ化け狐のイメージの一端を知ることができるのも面白いところです。今回は、その中から衣服の描写を中心に化け狐の特性を考えていきたいと思います。
 例えば、鄭六が任氏を口説き落としたのは、長安の西の市場にあるできあいの服を売る店(衣肆)でのことでした。また、金持ちの韋崟が任氏に衣服を買い与える場面があるのですが、高価なあやぎぬを買い与えようとする韋崟に対し、任氏は既製品の服を買ってくれるよう頼みます。韋崟は任氏を大切にしていますから、布を買い与えようとしたのは最高のプレゼントであったはずです。当時は衣肆で売られる既製品の服よりも、良質な布から自分で仕立てる方がずっと贅沢だったのでしょう。
 結局、韋崟は既製品の服を買ってやるのですが、このエピソードの末尾は「竟[つひ]に衣の成る者を買ひて自ら紉縫[じんほう]せざるなり。其の意を暁[さと]らず」と結ばれています。任氏は既製品の服を買うばかりで、自分で服を縫うことをしなかったのだが、韋崟はそれがどういうことなのか察することができなかった、という意味です。何を察するかといえば、もちろん任氏が狐であることでしょう。「紉縫」は「紉」も「縫」も縫うことです。当時は、狐の化けた美女はいかに優秀であっても自ら針を手にして裁縫しないと考えられており、自分で服を作らないということが任氏の正体を暗示していたわけなのです。それを知っている読者はなるほどと思いながら、韋崟がそれを見抜けない様子を面白く読んだのでしょう。人間の女性であれば針仕事を当然できるけれども、狐が化けた女性は針仕事ができない、という現代の私たちには共有されていない、しかし当時の中国の人々にとっての「常識」を私たちはこの物語から知ることができるのです。

 この任氏は、非常に美しいだけでなく、先を見通したり人を病気にしたり治したりという不思議な術を用いることができ、しかもその力を使って鄭六に尽くし、韋崟に恩を返そうとする聡明で健気な女性として描かれています。しかし物語の結末では、任氏はとても気の毒な最期を遂げます。
 ことの起こりは鄭六が遠方に出張になったことでした。普段は妻に気兼ねしていたものの、泊まりがけでの出張となれば存分に愛人任氏と楽しむことができると考えた鄭六は、彼女を連れていこうとします。占い師から西への旅は避けた方がよいと言われていた任氏は、当初誘いを断ろうとしますが、説得されてしぶしぶ承諾しました。さて、出発した鄭六と任氏とその侍女の一行が、馬嵬[ばかい]という場所にさしかかったときのことです。偶然、道に猟犬が飛び出してきて、鄭六は、任氏が馬から落ち狐の姿に戻って南に向かって駆け出すのを目にします。猟犬は狐を追いかけ、鄭六は任氏を助けようと必死に追いかけますが、人間の足では猟犬に追いつくこともできず、任氏は猟犬に捕らえられ殺されてしまうのです。鄭六は猟犬の主から狐の死体を買い取り、任氏のお墓を作ってやったのでした。
 この場面で興味深いのは、直前まで任氏が乗っていた馬の描写です。任氏の死体を引き取って鄭六が戻ってみると、馬は道端で草を食べていたのですが、鞍の上には任氏の衣服が、鐙[あぶみ]の上には靴と靴下がそのまま残っており、まるでセミの抜け殻のようだったと書かれています。この生々しい衣服の描写のおかげで、任氏が大慌てで狐に戻ったことがわかります。しかし、狐の姿を見れば猟犬は追ってくるものなのに、聡明な任氏はなぜ馬の背で狐の姿に戻るなどというミスを犯したのでしょうか。
 この疑問には、冒頭で触れた『捜神記』の張華の故事の狐がヒントになりそうです。張華が若者を狐ではないかと疑っているとき、友人の孔章が「若[も]し之を疑はば、何ぞ猟犬を呼びて之を試さざる(疑うなら猟犬を連れてきて試してみたらいい)」と提案し、実際に犬をけしかける場面があります。この狐は猟犬を見ても平然としていたのですが、この場面からは、人の姿に化けた狐は、猟犬を見ると恐れて狐に戻ると理解されていたことがわかります。猟犬が飛び出してきたとき、任氏が思わず狐に戻ってしまったのも、仕方のないことだったのです。
 聡明で健気な任氏は、未来を見通したり人を病気にしたり治したりという術が使える一方、裁縫ができず、猟犬を見ると恐れて狐に戻ってしまうという弱点も併せ持つ、様々な意味で化け狐らしい化け狐でした。当時の人たちが化け狐にどのようなイメージを持っていたのかなど、歴史書には書かれていない非常に面白い知見を、古典世界の物語は時として私たちに与えてくれるのです。


「任氏伝」(『太平広記』巻四五二)

〇韋崟に服を買ってもらう任氏
原文
任氏又以衣服故弊、乞衣於崟。崟将買全綵与之、任氏不欲曰、「願得成制者。」崟召市人張大為買之、使見任氏、問所欲。張大見之、驚謂崟曰、「此必天人貴戚、為郎所竊、且非人間所宜有者。願速帰之、無及於禍。」其容色之動人也如此。竟買衣之成者、而不自紉縫也。不暁其意。
書き下し文
任氏 又た衣服の故弊するを以て、衣を崟に乞ふ。崟は将に全綵を買ひて之に与へんとするも、任氏欲せずして曰はく、「願はくは成制の者を得ん。」と。崟は市人張大を召して為に之を買はんとし、任氏に見せ、欲する所を問はしむ。張大 之を見て、驚きて崟に謂ひて曰はく、「此れ必ず天人貴戚、郎の竊む所と為る、且つ人間の宜しく有する所の者に非ず。願はくは速やかに之を帰し、禍に及ぶ無からしめんことを。」と。其の容色の人を動かすや此くの如し。竟に衣の成る者を買ひて自らは紉縫せざるなり。其の意を暁らず。
現代語訳
任氏はきものが古くなったので、韋崟にねだった。韋崟は一面に模様をあしらった絹織物を買い与えようとしたが、任氏はそれを欲しがらず、「既製品の服がほしい」と言った。韋崟は商人の張大を呼び出して買い与えることとし、任氏に商品を見せ、どれがほしいか尋ねさせた。張大は任氏を見て、驚いて韋崟に言った。「こちらの方はさぞ高貴なお方、韋崟様がさらっておいでになったのでしょうが、俗世間にいらしていい方ではありません。どうぞ早くもといた場所に帰らせて、不幸な目に巻き込まれぬようになさった方がいいでしょう。」任氏の美貌が人の心をゆすぶるのはこのようであった。結局、任氏は既製品の服を買い、自分で縫物をすることがなかったのだが、その意味に韋崟が気づくことはなかった。

〇任氏の最期
原文
崟以馬借之。出祖於臨臯、揮袂別去。信宿、至馬嵬。任氏乗馬居其前、鄭子乗驢居其後、女奴別乗、又在其後。是時西門圉人教猟狗於洛川、已旬日矣。適値於道、蒼犬騰出於草間。鄭子見任氏歘然墜於地、復本形而南馳。蒼犬逐之、鄭子随走叫呼、不能止。里余、為犬所獲。鄭子銜涕、出囊中銭、贖以瘞之、削木為記。廻覩其馬、噛草於路隅、衣服悉委於鞍上、履襪猶懸於鐙間、若蝉蛻然。唯首飾墜地。余無所見。女奴亦逝矣。
書き下し文
崟は馬を以て之に借す。出でて臨臯[りんこう]に祖し、袂を揮ひて別去す。信宿し、馬嵬に至る。任氏は馬に乗りて其の前に居り、鄭子は驢に乗りて其の後に居り、女奴は別に乗りて、又た其の後に在り。是の時 西門の圉人[ぎよじん] 猟狗[れふく]を洛川に教ふること、已に旬日なり。適ま道に値ひ、蒼犬 草間に騰出す。鄭子は任氏の歘然[こつぜん]として地に墜ち、本形に復して南馳するを見る。蒼犬は之を逐ひ、鄭子は随ひて走り叫呼するも、止[とど]むる能はず。里余、犬の獲ふる所と為る。鄭子は涕を銜み、囊中の銭を出し、贖ひて以て之を瘞[うづ]め、木を削りて記を為る。廻りて其の馬を覩[み]れば、草を路隅に噛み、衣服は悉く鞍上に委ね、履襪[りべつ]は猶ほ鐙間[とうかん]に懸り、蝉蛻[せんぜい]の若く然り。唯だ首飾のみ地に墜つ。余は見る所無し。女奴も亦た逝[さ]れり。
現代語訳
韋崟は任氏に馬を貸してやった。臨臯で送別の宴をし、手を振って名残を惜しみ出立した。二泊して、馬嵬までやってきた。そのとき任氏は馬に乗って前を行き、鄭六は驢馬に乗ってその後ろを行き、任氏の侍女は別の馬に乗って、さらに後に続いた。この時期、犬などの世話をする西門の役人が洛川で猟犬の調教をすでに十日ほど行っていた。偶然にもそこに通りがかると、黒い犬が草むらから飛び出してきた。任氏がたちまち馬から落ちて、もとの姿に戻って南に向かって駆け出すのを、鄭六は目にした。黒犬は狐を追い、鄭六は叫びながら追いかけたが、止めることはできない。一里ばかり行ったところで、犬に捕らえられてしまった。鄭六は泣きながら、袋の中の銭を取り出して、狐の亡骸を買い取って埋葬し、木を削って墓標を作った。見回してみると任氏の馬は、道端で草を食べており、彼女の衣服は鞍の上にそのまま捨て置かれ、靴や靴下はあぶみにかかっており、まるでセミの抜け殻のようであった。首飾りだけは地に落ちていた。ほかは何もなかった。侍女もいなくなっていた。


(c)Asako Takashiba,2022

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