当館では、『大漢和辞典』を始めとする漢和辞典を発行する大修館書店が、漢字や漢詩・漢文などに関するさまざまな情報を提供していきます。

漢字Q&A

漢字Q&A

以前の漢字文化資料館で掲載していた記事です。2008 年以前の古い記事のため、ご留意ください。

Q0429
「楽しむ」と「愉しむ」はどちらも「たのしむ」ですが、どのように使い分けたらよいのでしょうか?

A

小社『大漢和辞典』の「字訓索引」で「たのしむ」を調べてみると、なんとなんと、56個もの漢字が並んでいます。「ものには限度ってものがあるんですよ、諸橋博士」と文句の1つもいいたくなりますが、これらのうち、現在でも「たのしむ」として使われているのは、なんといっても「楽しむ」が代表、「愉しむ」もけっこうよく使われますが、あとは「娯しむ」をときどき、見かけるくらいでしょうか。
しかし、数ある「たのしむ」と読む漢字の中から、この漢字がNo.2の地位を獲得したのは、実はそんなに古いことではないようです。
文学作品での「愉しむ」「愉しい」などの用例を探してみたところ、私が見た範囲で一番古かったのは、林芙美子『放浪記』の次のような一節でした。

道を歩いている時が、私は一番愉しい。五月の埃をあびて、新宿の陸橋をわたって、市電に乗ると、街の風景が、まことに天下タイヘイにござ候と旗をたてているように見えた。この街を見ていると苦しい事件なんか何もないようだ。

この作品は、昭和1ケタのベストセラーですが、これ以前、たとえば漱石や鴎外、芥川龍之介といった明治・大正の文豪たちの作品の中には、「愉しい」「愉しむ」は見あたらないのです。少なくとも文学の世界では、この漢字がよく使われるようになったのは昭和に入ってからのことのようです。
つまり、もともと「楽しむ」の独占市場であったところに、「愉しむ」が入り込んできたらしいのです。その理由はよくはわかりませんが、「楽しむ」では自分の思いが表現できないと感じたとき、人は「愉しむ」を使うようになったのではないでしょうか。
ふつうの「楽しみ」ではない「たのしみ」。それが、「愉しみ」だというわけです。もちろん、その「たのしみ」のどこが「ふつうでない」のかは、人によって違うことでしょうけれど……。

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