当館では、『大漢和辞典』を始めとする漢和辞典を発行する大修館書店が、漢字や漢詩・漢文などに関するさまざまな情報を提供していきます。

漢字Q&A

漢字Q&A

Q0534
中国の固有名詞に見られる簡体字を、日本の文献で表記する場合、どのような問題があるのでしょうか。

A

 一つ前のQ0533の続きで、中国の固有名詞に含まれる簡体字を日本漢字にするときの問題について考えてみます。迷う例は多くありますが、たとえば、

  “范”  「範」「范」
  “杰”  「傑」「杰」
  “钟”  「鍾」「鐘」
  “曲”  「麯」「麴」「曲」

について考えてみましょう。左の“○”の○が、『簡化字総表』で右側の字の簡体字とされたものです。
 「岳陽楼記」で知られる北宋の詩人「范仲淹(はんちゅうえん)」は、現代中国の文献で“范仲淹”と簡体字で表記されます。これを、“范”は繁体字「範」の簡体字だからといって、日本の文献で「範仲淹」とすることはないでしょう。もともと「范」は後漢の字典『説文解字』にもあり、姓氏としてよく使われる字です。それと発音が同一ということで、「範」の簡体字にもなったのですが、「范仲淹」は有名人であるがゆえに、もとから「范」であることが知られており、「范」か「範」か迷うことはないわけです。一般に姓氏の場合には「范」の方が多いようですが「範」も姓氏にないわけでありません。『大漢和辞典』(大修館書店)を見れば、「範」の字義の末尾に「姓」と記されているので確認できます。そこで有名人でない場合には、姓氏の場合は「范」が多いと見当をつけつつも、確定はできませんから、何らかの調査、確認作業が必要になってきます。
 現代中国の“杰某某”と記された人物が訪日団に参加していたとします。そこで、日本漢字で訪日団の名簿を作成するとして、迎える日本側は、彼を「杰某某」とするか、「傑某某」と表記するか迷うことになります。「杰」はもともと姓氏人名用字で、「傑」の俗字でもあったのですが、『簡化字総表』で同音のためにその簡体字とされました。一方の「傑」もむかしから姓氏としてあった字です。「傑」のほうは姓氏としては少ないため、「杰」の可能性が高いと見当はつけられますが、結局はご本人に「杰さん」か「傑さん」かを確かめるしかありません。このことは、冒頭に挙げた“钟”、“曲”の場合でも同じです。
 興味深いことに、『簡化字総表』で、“钟”は「鍾」「鐘」の簡体字とされていたのですが、その後の中国でも使用に際して混乱があったのか、2013年6月に公布された『通用規範漢字表』で、姓氏の場合には新たに“锺”の使用を規範とすることになりました。これによって「鍾」さんは“锺”と書く決まりになったのですが、まだ“钟”と表記されることが多いのが実情です。よって、“钟”を日本漢字として表記する場合、最新の規範に従っているからといって「鐘」を選択するわけにはいきません。加えて、姓氏としては「鐘」よりも「鍾」のほうが圧倒的に多いという事情も、そこにからんできます。
 つぎの「麯」「麴」「曲」、これらはいずれも姓氏としてむかしからあります。中国では1955年末の異体字整理で「麴」は「麯」の異体字として整理され正式には使用されなくなり、そして、生き残っていた「麯」は『簡化字総表』で簡体字の“曲”と表記することになったのでした。ところが、上記の『通用規範漢字表』で、このたび姓氏として使用されることになり復活したのです。上記の各例と同じように、“曲某某”さんを日本漢字でどう表記したらよいかやはり迷ってしまいます。ちなみに、四川省の名酒として名高い“泸州大曲酒”は日本では「瀘州大麯酒」と表記されるのが一般的です。

  このように、姓氏に使われる文字はどちらが多いかおおよその見当がつく場合がありますが、しかしそれでも、何らかの確認が必要になります。姓氏でなく名前に使われる場合や、地名の一部である場合には、見当もつけにくく、なおさら困ることになるのです。

 「石家荘」か「石家庄」かのQをきっかけとして、迷路に入り込んでしまったような話になりましたが、同じ漢字を使っていても、日中間の漢字使用には一筋縄ではいかない問題が種々横たわっていることをわかっていただけたと思います。(舩越國昭)

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