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空山 人を見ず、但だ聞く 人語の響き――王維「鹿柴」

 もう三十年ほど前、高校の漢文教科書にどんな詩が採られているか、数えてみたことがあった。最も多いのは王維。なるほどと納得。最近の教科書は知らないけれど、今でも人気投票を行ったら、やはり王維が上位に来るのではないか。その清浄で幽邃[ゆうすい]な詩境は、日本人がいだいている漢詩のイメージそのもの。それを端的に語っているのが、夏目漱石「草枕」の主人公である。

 余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞する様なものではない。俗念を放棄してしばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。……うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。採菊東籬下、悠然見南山。ただそれぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。独坐幽篁裏、弾琴復長嘯、深林人不知、明月来相照。ただ二十字のうちに優に別乾坤を建立している。この乾坤の功徳は「不如帰」や「金色夜叉」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後に、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。

 西欧の芸術に倦み疲れた主人公の画家は、東洋的世界に慰めを求める。安らぎを与えてくれるのは、煩瑣なこの世の中とは別世界を描き出した陶淵明・王維の詩、日本人が好む漢詩の世界である。
 漱石が挙げている王維の詩は、『輞川[もうせん]集』二十首の連作の一つ「竹里館」。ここではそれに劣らずよく知られている「鹿柴[ろくさい]」を読もう。

 空山不見人  空山 人を見ず
 但聞人語響  但だ聞く 人語の響き
 返景入深林  返景 深林に入り
 復照青苔上  復た照らす 青苔の上

 『輞川集』は王維の別荘である輞川荘の庭園のなかから二十のスポットを選び、それぞれに名を付けて五言詩を賦したものである。
 詩題の「鹿柴」はふつう鹿を飼うための囲いと言われるが、鹿の侵入を防ぐための垣根ではないだろうか。山から庭園内に入って来る鹿を阻む柵。山と連続するほどに、ここは庭のなかでも奥深い所に位置する。
 「空山」は詩ではおなじみの語。秋になって木の葉の落ちた山とか、人気[ひとけ]のない山とか、あるべきものがない空虚な山と説明される。空虚は欠如ではなく、夾雑物[きょうざつぶつ]がない代わりに、静寂が充満している。ひっそり静まりかえった山に、詩人はひとりたたずむ。「人を見ず」――きょろきょろ見回しても人影が見つからない、ではなく、目に映らない、目に入ってこない。
 しかし人の気配はある。「但だ聞く 人語の響き」――何を話しているかはわからないけれど、どこからか人声が籠もった響きとなって聞こえてくる。
 「返景」は西に沈む夕日が東に投げかける光。それが「入る」。太陽が傾いて、今までなかった光線が木漏れ日のように射し込んでくる。ここには太陽の移動によって、時間の経過がおのずと示される。「上」は上声[じょうせい]の韻字(shang3)だから「復た照らす青苔の上」ではなく、「復た青苔を照らして上[のぼ]る」と、動詞に読むべきだという説がある。太陽が下に傾いていくにつれて、照り返しは逆に下から上へ、苔の上に光が這い上がっていく。とすれば、より細やかに時間の変化に伴う光線の変化を捉えたことになる。しかしそこまで読まずとも、第三句の「入る」に十分、太陽の傾き、時間の変化は示されているし、「復た青苔を照らして上る」という句作りはやや重くなるから、ふつうの読み方でよいと思う。

 苔の「緑」とその上を照らす夕日の「赤」は補色関係にある。詩のなかの色彩は、このように単純な補色が取り合わされることが多い。
 ひっそり閑とした山中に一人たたずんでいるところに、夕日の光が射し込んでくる。それは何か明るいもの、暖かいものを詩人の胸中にもたらす。「竹里館」の詩の「明月 来たって相い照らす」もそうであったように、王維の詩では日や月の光が、あたかも詩人を慰撫するかのように、いつも折良くあらわれる。ひとり居ることは寂寥ではなく、静かな充足感に満たされている。

    *

 俗塵をつゆ含まない清らかで美しい世界、そのまま絵になるような洗練された映像、それがこの詩人の魅力であるのは確かだ。そのように受け止められてきたし、わたしもそう思っていた。そのためにかえって「偏愛」することもなかった。 
 しかし今、『輞川集』の連作二十首を読み直してみると、どうもそれだけでは収まりきらないような気がしてきた。漱石が脱俗の詩として王維と並べている陶淵明、彼が実はしたたかな表現者であったように、王維も混じりけがない無色透明の蒸留水とは違うようなのだ。
 深い山のなかにひとり身をおいているつもりになってみよう。ふつうだったら、そこに他者の存在は痕跡すらない、完全に無人の静寂さを思い描く。王維と同じ対象を詠んだ友人の裴迪[はいてき]の詩がそうだ。

 日夕見寒山  日夕 寒山を見て
 便爲獨往客  便[すなわ]ち独往の客と為る
 不知深林事  知らず 深林の事
 但有麏麚跡  但だ麏麚[きんか]の跡有り

 ここには人の気配が微塵もない。わずかに鹿の足跡(麏麚の跡)が鹿の存在を暗に示すのみで、人間世界と完全に隔絶している。俗塵から離れた境地を言うには、そのほうが徹底している。
 ところが王維の詩では、「人語の響き」が聞こえてくる。人声は聞こえても姿は見えないほど、深い山のなかであることを言おうとしているのだが、しかし人はまったくいないわけではない。聴覚を通して間接的に存在しているのである。
 一見、夾雑物のように思われる「人語の響き」を、王維はなぜ持ち出したのだろうか。全体の静けさをあらわすために、小さな音を添えることがある。韋応物「秋夜 丘[きゅう]二十二員外に寄す」詩では、やはり秋の夜、無人の山をひとり歩いていると、「山空しくして松子落つ」、松ぼっくりがぽつんと落ちる音が静寂を破り、それによってかえって静けさが強調される。しかし王維の「人語の響き」はそれとは違う。静寂を破るのは、「松子」の落下のように、一瞬の音でなければならない。「人語の響き」は持続した音である。静けさを強調しているわけではなさそうだ。
 山のなかに反響する人の話し声、それはどのように受け止められるだろうか。いくつかの可能性がある。1は静寂を妨げる、耳障りでうるさい音。2は誰ともわからぬ声に不気味さを覚える音。3は山中にひとりでいながら、人の存在を知ってなにか安堵を覚える音。わたしは3だと思う。ここは必ずしも人間世界と隔絶してはいない。人声が聞こえることで連続はしながら、しかし自分ひとりが専有する閑寂の空間に浸る。裴迪が人間を完全に排除したのに比べると、人の存在を暗示する王維はいささか複雑である。

 今回、王維の詩を読み直してみて、これまで受け止めてきたような、混じりけのない、清浄無垢な詩的世界とは違うような気がしてきた。そういう点から読み直せば、王維の詩は単に淡泊なものではなく、より濃い味わいを含んだものとして、新たな面を見せてくれるかも知れない。

(c) Kozo Kawai,2019

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