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セミの声――李商隠「蟬」

 夏の短い夜が白むころになると、セミが一斉に鳴き始める。地表に出てから生が尽きるまでのわずかな時間、それを惜しむかのように、ここを先途と渾身の力をふりしぼった声が耳をつんざく。「せみしぐれ」などといった風雅なものではない。この世の不条理に怒りをぶつけ、自暴自棄になって、命のあかしを叫び続ける。
 中国の詩のなかには、こうしたかしましく暑苦しいセミもないではないが、それより目立つのは夏が過ぎ、力なく木にへばりついたまま、かぼそく鳴く秋のセミである。そんなセミをうたう「蝉の賦」が後漢のころから書かれるようになる。『三国志』の奸雄曹操[そうそう]の息子である魏・曹植[そうしょく]にも「蝉の賦」がある。それには子どもたちに追われ、逃げ場を失って飛び込んだ屋敷で捕らえられ、焼かれて食べられてしまう哀れなセミの生涯がうたわれる(中国では今でもセミを食べる所があるようだ)。
 セミは露しか口にしない清廉な生き物と考えられたので、無欲で清廉なるがゆえに不遇を強いられる士大夫のメタファーとなる。哀れなセミの形象が後漢の時期に登場するのは、権力に与せず精神の高潔を保つ士大夫像、いわゆる「清流の士」が形成された時期と呼応している。ちなみに中国の社会は士大夫と庶民の二つの階層に大別され、古典の教養を備えて政治に参与する義務と権利を負うのが士大夫、そのもとにあって地位も特権もないのが庶民。我々が読む古典文学を担うのは、基本的に士大夫階級に属する人々であった。
 そんなセミの詩の系譜のなかで、絶唱ともいうべきは、晩唐・李商隠[りしょういん]の「蝉」の詩である。

 本以高難飽  本より高きを以て飽き難きも
 徒労恨費声   徒[いたず]らに恨みて声を費すを労す
 五更疏欲断   五更 疎にして断えんと欲するも
 一樹碧無情   一樹 碧にして情無し
 薄宦梗猶汎   薄宦 梗[こう]猶お汎[うか]び
 故園蕪已平   故園 蕪[あ]れて已に平らかなり
 煩君最相警   君を煩わせて最も相い警[いまし]ましむ
 我亦挙家清   我も亦た家を挙げて清らかなり

 もともと高い樹の上で節義高く暮らしているのだから、腹を満たすことなどできはしない。なのにそれをあだに悲しみ、せんなく声を上げ続ける。
 空が白むころには声も間遠になって消え入りそう。身を寄せる一本の木は青いままで何の情けもない。
 しがない宮仕えのこの身は、水に漂う木の人形、どこへ流れゆくとも知れぬ。ふるさとの庭は、荒れ果ててもはや原っぱに化しているだろう。
 君には誰よりも強く警告してもらった。わたしもまた一族挙げて清らかそのものなのだから。

 五言律詩の前半四句はセミをうたい、後半四句は自分を語る。その両者が一つに重ね合わされている。内容をまとめれば、すぐれた資質を持ちながら、あるいは持つがゆえに、割を食う我が身を嘆く、いわゆる「賢人失志」の系譜に属するものなのだが、そう括ってしまっては、この詩の切実な感触は失われてしまう。
 高い道義を保持することと世の栄達を手にすることは、本来相容れないものとわかっているのに、にもかかわらず不如意を嘆かざるをえないやりきれなさ。夜を徹して鳴き続けた声も、明け方に至るともはや絶え絶え。ただ一つのよすがとして身を寄せる木も、何の情けも示してくれない。
 「五更 疎にして断えんと欲するも、一樹 碧にして情無し」――実際のセミは「五更」、明け方になって鳴き始めるものだが、この詩のセミは夜中鳴き続けて、朝が近づくころには力尽き、声も途切れがちになる。セミが姿をひそめている樹木、それは青々とこんもり繁っているのだが、その「碧」なる色がここではなんと冷たく目に映ることか。庇護者に何の憐れみも掛けてもらえない詩人の怨みが籠もるかのようだ。
 セミの悲痛な声は、浮かばれることのない下級官吏たる自分を映し出し、身をもって警告を与えてくれる。セミに満腔の同情を寄せ、世間からはじき出された者同士として悲しみを共有する。――そして読者であるこのわたしも「敗北を抱きしめて」おのずと湧き起こる共感に浸される。

 李商隠(八一一~八五八)は官吏登用試験である科挙の進士科、書判抜萃科[しょはんばっすいか]に続けて合格し秘書省校書郎[こうしょろう]に就くというエリートコースを順調に進んだのだが、なぜかその後は官職に恵まれず、各地の節度使のもとを転々としているうちに、不本意なまま一生が終わってしまった。彼もまた世を生きるのに拙く、その代わりに珠玉の詩篇をのこした詩人の一人であった。
 世をときめく人の得意ぶりをうたう詩は、いつの時代にあっても多くはない。思うにまかせぬ生にうちひしがれる人々、その悲しみを歌い手と読み手がともに噛みしめるのが詩なのだ。詩はやはり弱者のものというべきか。少なくとも処世とは別の原理のもとにあることは確かだ。
 今朝も早くから、暑さをいやましにするかのように鳴き続けるセミ、彼らはいったい何を訴えてかくもけたたましい叫びをあげるのか。セミたちのメッセージをいかに受け取るか、そこにも聞く人それぞれの思いが映し出される。

 ※「蝉」は本来、「ツ」が「口口」となった形

(c) Kozo Kawai,2019

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