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『漢文教室』19号(1955年6月発行)掲載

漢学界の回顧 十一(口述)


中国の学者の思い出

 中国の学者には人を引きつける力を持っている人が多いように思う。謙虚で勤勉で礼節があって、その上蘊蓄も比較的多いからであろう。かつて岡千仭(鹿門)の支那遊記を読んだことがあるが、その中にも同じような印象が記されていた。竹添井井は中国の滞在も長く、かの地の学者との往復も多かつた人であるが、その筆談を調べてみても、やはり同一の漢字を持たれたと思われる節が、随処に見られるのである。
 私が最初に中国に遊んだのは、もう今から約三十五年前だが、当時はまだ前清時代の所謂遺賢と称せられる人々も少くなかった。百種に近い著作を持っていた芸風堂の繆筌孫(筱珊)などは腰も曲り歯も欠けていたが、それでも山積している書物の中に埋れて、矻々と勉強を励んでいた。沈子培(曾植)は前清の覆滅に因って転落の運命をたどりながらも、あくまで正朔を奉じて、民国の年号を用いずにいた。再度の訪問の時は、もう病進んで気力は衰えていたが、それでもなお日支両国の青年が東洋固有の研究を忘れやしないか、と言って嘆いていた。
 沈子培と相並んで南沈北陳と称せられていた陳宝琛(弢菴)は最も忘れ難い学者の一人である。同氏は人も知る如く、宣統帝即ち前満州皇帝の御幼時の師傅であったが、清朝が滅び民国が起り、文字通り有為転変の多かった時勢にひたすら幼少の宣統帝を保護しておったのである。当時は確か毎日「大学」と「資治通鑑」とを進講していたが、その書物を選定した理由を聞いた時に、大学は治心の本、通鑑は経国の鑑と言われたことを覚えている。かつて坂西(利八郎)の宅で一つの名硯を見たことがある。陳氏の家から出たものだとのこと。清朝皇室の財政が苦しくなった時、陳氏は私財の中から何やかやをかき集めて、一時を弥縫していたのだそうだ。ある時私が学問の方法について質問をした処が、氏は何も言わずに、朱子の左の詩を扇面に書いてくれた。

 半畝の方塘一鑑開く 天光雲影共に徘徊
 渠に問ふ那ぞ清きこと許の若きを得たる
 源頭の活水有るが為よりして来る
 昨夜江辺春水生じ 艨艟巨艦一毛軽し
 向来枉りに費す推移の力 此の日中流自在に行く

というのである。まじめにさえ源泉を蓄えておれば、そのうちに中流自在の力が澎湃として湧き出て来る時がある、という意味だろう。
 陳氏と同じく初めから宣統帝にお仕えしていた人に、後日の満州国総理鄭孝胥(太夷)がある。氏も立派な人であった。この二人が満州建国と共に、一は出で一は隠れた。行蔵節を異にするのは、転変の中国の時勢には蓋し已むことを得なかったことであろう。
 その頃には桐城派の人々も二三はおった。姚姫伝の子孫だという姚永樸・姚永槩兄弟もおったし、馬瑞辰の子孫だという馬通伯(其昶)もおった。特に馬通伯は学問から言っても、家学を継いで立派に毛詩学などの著述もあり、風格から見ても誠に珍しい人のようであった。それこそ謙虚であり、温雅であり、まず私の好きな人の一人である。ある日、朝早く訪問したことがあった。中国の人はめったに家人を引き合せぬ慣習のようだが、同氏はいきなり今食事中だという全家のテーブルの中に私を引き入れ、その上同氏が用いていた匙で、粟の粥を私の口の中へ入れてくれた。最も親しい人だからと言うのだそうだが、些か閉口したことを今に覚えておる。
 桐城派とは直接の関係はないようだが、当時北京には、「新元史」で有名な柯邵忞(鳳蓀)、詩人で有名な樊樊山(増祥)、それに同じく史家であり詩人であった王樹枏(晋卿)などもいた。共にたびたび会って益を請うたが、何れも温良にして謙譲な、気持の良いという感じだけが今でも頭に残っている。
 長沙は湖南学者渕叢の地だと言われていたが、私の遊んだ頃は王先謙・王先慎も既に没し、王闓運もこれまた歿しておったので、実はあまり有名な人々もおらなかった。曾国藩の孫に当る曾国鈞・曾広江及び左宗棠の孫に当る左国筌などが、二名家の後を継いで立派に家系は守っていたが、学者としてはさほどの人ではなかったらしい。独り多識を以て鳴っていた葉徳輝(煥彬)がいた。塩谷節山が暫く元曲などについて師事せられた人である。万巻の蔵書もあり、博学は確かに博学であったが、見たところ歯は出っ歯であり、頬はこけ、余り上品な人ではない。革命熱が同地に蔓って行くや、同氏は旧思想の持主であるという単純な理由で殺された。とにかく惜しいことをしたものである。
 変死した人に王国維(静安)がある。「観堂集林」の著者として著述も多く、日本の学者にも多く知られているが、学問としては近代風の研究もでき、古典にも精通しているので、立派な学者だと思う。最初に会った時は、上海の陋巷にそれこそ名利を外に懸命の勉強をしていた。かなり貧乏でもあったのだろう、六畳と八畳とぐらいの二間の借間住まいに、ただ書物だけは山積しておったようだ。その後、着々立派なしかも不朽の名著を出しておったが、遂に時勢を痛憤して万寿山下昆明池に身を投じて死んだ。私は万寿山に遊ぶごとに、この不遇の学者の最後に無限の感慨を寄せずにはおられなかった。
 学者中一寸変り種だと思われたのは、康有為(南海)と章炳麟(太炎)とであった。共に幾分政治にも意見を持っておる人々であったからでもあろう。康有為の「変法自強の策」などは、青年時代に歴史に学んだくらいだから、本人などは到底生きてはおるまい、おっても非常な老人であろうと思っていたのであるが、さて会ってみると、存外若いのに驚いた。確か私の初対面の時(大正九年)は、まだ六十を二つ三つしか越していなかったと思う。「万木艸堂叢書」は氏自身の叢書だが、中に約百種の著述を収めており、そしてその内「偽詔を奉じて板を燬く」というのが数十種に亘っておるというのが、氏の自慢の一つであった。幾度か忌諱に触れて公刊禁止の運命に遭遇したわけである。初対面の時には「春秋大義微言考」という著述を頂戴したが、「これが自分の正名の大義を明らかにしたものだ。君、日本に帰ったら是非この学を伝えてくれ。」と長時間に亘って説得せられたものである。梁啓超(任公)などは康氏の門人であったが、当時はまだほんの黄吻の青年として取扱われていた。康有為は気焰は高いが、別に驕慢な態度は少しも見えず、却って慕わしい感じをさえ抱かせられたが、これに反して章炳麟は全く傲岸不遜の人のように見えた。初めて書斎に通された時には、書見中であったとは言え、殆どこちらに見向きもしない。そして頭から日本の学者の痛罵であった。それでもたびたび会ってみると、不屈の中に純情らしい所も見え、聞いている間に学問の深さも分って来て、だんだん好きになって来た。その著「章氏叢書」など、強いてむずかしいことを言っておるという感じも無いではないが、やはり学者としては立派なものだと思う。
 ほかに、前清翰林の出身でしかも新学提唱の先達となった人に、蔡元培(孑民)がいる。長らく北京大学の校長を勤めていたが、北京大学がともかく新中国文化の中心となり、新文化を指導するに至ったのは、一に蔡氏の力だという。丁度、私の北京留学時代、大学校長として華々しい活動をしていたが、その時福建の旧学者林琴南(紓)から、手厳しい北京大学の攻撃が起った。それは北京大学が近来余りにも自由思想にかぶれて、旧国学の真摯なる研究を無視する、ということであった。然るにこれに対して蔡氏は、洒々として言文一致の文体を以て答え、すべて文化を進展せしむる為には、一時多少の弊風の生ずるのも已むを得ない、思想の自由を許さぬ所に文化の発達は無い、と言ってそれに関する応答をした。これが所謂近代中国の新文化運動、更に具体的に言えば、五四運動などの一つの標幟となったのである。個人的に接すると、温情もあり見識もあり、相当気概もあり、立派な人という感じを得た。事変後は重慶の重要顧問となっていたが、その後逝去せられたようだ。ほかに、楊鍾義・胡玉縉なども立派な人であったが、今は皆故人である。
 以上の数氏は何れも早く故人となった人々であり、学風から言っても、旧学者と言うのであろう。然し、ともかくも前清時代の儒流の俤を存して、どことなく篤実なところが見え、重厚なところが窺われた。その後の生否はよくは分らないが、この型の人々にはやはり上海の張元済、北京の傅増湘(蔵園)などが挙げられよう。前者はかつての商務印書館涵芬楼の総取締りとして、後者はかつての教育部総長として、それぞれ実務の上にも十分の才幹を揮った人であるが、元来学者肌であり、当時は常に秘笈珍籍の中にその余生を楽しんでいた。董康は司法大臣などの出身だが、当時珍籍を刊行していた。
 ほかに新しい学者としては、周作人は教育総長、銭稲孫は北京大学総長などを勤めたし、徐祖正は同大学教授に、胡適は駐米大使におったことがあったが、その後は文通も絶えて、その消息は分らない。その他、曾識の交遊には、倫明・楊樹達・馬裕藻・陳垣・黄節・馬叙倫・朱希祖・孫德謙・沈尹默・沈兼士・馬衡・馬鑑・郭沫若等の諸君もおるが、何分にも中国も変転極まりない世相の渦巻の中にあったから、その後どんな方面にどんな活動をしているか、杳として消息を知らない。(終)〔三〇・五・四筆記 文責在牛島〕

*本論考は『諸橋轍次著作集 第十巻』(大修館書店)にも収録されています。

(c)Morohashi Tatsuto ,2015

当連載について

『漢文教室』は、1952(昭和27)年5月に創刊されました。
 漢文教育振興の気運が高まっていた当時、小社では諸橋轍次先生を編集顧問に、中西清・鎌田正・大木春基・鈴木修次・小林信明・尾関富太郎・牛島徳次の先生方を編集委員とした検定教科書『高等漢文』を発行、雑誌『漢文教室』もこの機に創刊されました。
 漢文教育のありかたについて、また発行教科書について、「理論と実際の両面から活発なる研究を試み、漢文教育の真のありかたを研究する」(諸橋轍次先生「発刊の辞」)ことを目的としてスタートしたこの雑誌は、以来、多くの先生方のご指導・ご支援により、漢文教育界の動向及び最新の教材研究、授業実践等を、全国の先生方にお届けしております。
 当「漢字文化資料館」の「『漢文教室』クラシックス」では、現代の読者の皆様には目に触れる機会の少ない『漢文教室』の古い号から、掲載論考を再掲してご紹介します。

 *各論考は原則として掲載当時の原文に変更を加えずに掲載します。ただし、インターネット上で示しにくい漢字等は、適宜、別字体にするなどの変更をします。図版類についても、適宜、割愛します。
 *論考内で使用されている語や言及されている事実関係については、現在では用いられない表現、現在とは異なる事実等がありますが、各論考の執筆時期をご考慮の上、ご覧ください。
 *「漢文教室」は主に高等学校国語科の先生方にお届けしている雑誌です。(197号以降の号は、大修館書店のサイト「Web国語教室」にて、ご覧いただけます。)

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