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漢字の民俗誌

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 漢和辞典というのは本来、中国の古典・漢文を読むためのものだが、日本独自の漢字情報も載せている。たとえば人名に使われる特別なよみを示した「名乗(なのり)」や、姓氏や地名について特別なよみを示した「難読」などの項目がそれだ。ところがそうした日本固有の漢字情報は、伝統的な漢字・漢文研究からみるとテリトリーの外のものされているために、適切な執筆者を見つけるのはなかなか大変である。

 編集経験の浅い私が、長らく漢和辞典を担当してきた先輩編集者から引き継ぎを受けた時、この「名乗」「難読」の専門家として教えられたのが丹羽基二(にわ・もとじ)先生であった。できるだけ早い時期に挨拶にいくように、と。
 私はさっそく東京西郊にある丹羽先生の自宅に挨拶にいった。応接室に通されてまず度肝を抜かれたのは、なんと部屋いっぱいに細長いヒョウタンがぶら下がっている。先生は開口一番、「森田さん、これ何だか知ってる?」と問う。ヒョウタンといえば丸く二つにくびれたものを思い浮かべるが、ここにあるのは細長くずんどうのもの。見れば先住民の仮面のようなものも並べてある。私が答えに窮していると、「これはね、ペニス・ケースなのよ」とカラカラと笑い、ニューギニアやアフリカの各地を旅行したときの興味深い話をいろいろとしてくださった。

 漢字や漢文の研究者といえば、生真面目な人物を想像する向きもあるだろうが、丹羽先生はそのイメージとはほど遠い、気さくで快活な方であった。それにしてもニューギニアと日本の人名・地名と、いったいどういう関連があるのか? 博識で談論風発、つきることのないお話を聞いているうちに、先生が人類学や民俗学に造詣が深いことが感じ取られ、それで納得がいった。
 日本の人名・地名研究のためには、人間にかかわる森羅万象についての知識がなければいけない。全国の墓地を調査し、古い石塔の文字を一つ一つ拾って歩いて30万の苗字を収集・研究したという、その学殖の裏付けがそれだったのだ。先生は「私は丹羽二だが、『二』と呼ばれていたことがある」と言って笑われた。じつは命名の習俗から、ほんとうに元は「墓二」であったことは、『漢字の民俗誌』で紹介されている。

 私はその気さくな話しぶりにつられて、地方の学校や書店を営業回りしていたころ、ユニークな人名とであった経験をお話しした。
 ――東北地方の高校を訪問したとき、国語の先生にお目にかかり名刺交換をした。名刺をみると「東海林」とある。私は「ああ、ショウジ先生、よろしくお願いします」というと、相手の先生は「トウカイリンです」とおっしゃった。私は何か虚をつかれた気分だった――
 話を聞き終わると丹羽先生は、破顔一笑しておっしゃった。
「ああ、東海林をそのまま『トウカイリン』というのは山形の真室川地域ですね」
 私は驚いた。まさにその真室川近辺の高校だったのである。しかも「そこだけだ」とおっしゃる。私は舌を巻いた。他の地域についても正確な知識をもっていなければ言えない言葉だ。

  丹羽基二先生の話を聞きながら考えたことは、中国の伝統的な漢字・漢文に対して、人名地名や国字など、日本独自の慣用的な漢字の使い方は、なんとなく正統でないもの、というような意識がみられる。ところがそれらは日本人独自のモノの考え方、生活習慣、人間関係などが表れたもので、きわめて貴重なものではないか。民俗学に裏付けされた広範な調査をもとにした『人名地名の漢字』のような本を、先生に書いてもらえないものか……。
 こうして生まれたのが丹羽基二先生著『人名・地名の漢字学』であり、漢字の訓や国字、苗字と神・天・祈り、自然や動物とかかわる苗字と家紋など、丹羽漢字学の精髄がまとめられたもので、幸い発行すぐさま重版となった。
 しかし丹羽先生の博識は一冊の単行本で語り尽くされるようなものではない。引き続き、その仕事は『あじあブックス5 漢字の民俗誌』として結実した。そこでは「民俗」により強い光があてられ、人名・地名の漢字に託された意味や、文字にまつわる習俗を紹介しながら、日本人の生活感・人生観が浮き彫りにされている。

  ところで最近、文字は漢字だけれど、意味と音との関連がわからず、耳には欧米系のような、いわゆる「キラキラネーム」がはやっているが、泉下の丹羽先生はどう思って見ておられるのだろうか。一献酌みながら、そのお話をきいてみたいものだ。(森田六朗)

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